田中誠司舞踏公演『風のない子』 日暮里 d-倉庫
誠司は脱皮して服を着た
フレッシュな感想じゃないけれど、開けたてのワインより、少し時間が経って空気を含んだワインをじっくり楽しむ方が好きなので、27日の土曜日に立ち会った田中誠司の舞踏について書いてみる。批評じゃなくて感想。
この日は、まず六本木の国立新美術館でルネ・マグリット展を夫と見る約束をしていた。乃木坂の駅で夫と待ち合わせ。最初は、田中の公演は一人で行く予定だった。
乃木坂までの電車の中で、「今日はd-倉庫かあ。初めての場所。日暮里か~」とふといつもない不安な感じがやってきた。夫にメールを送って、「やっぱり今日一緒に舞踏みよう」と誘った。そして、美術館について田中のパートナーの佳代さんにすぐに電話をしてチケットをキープしてもらった。
マグリット展は、人間の頭を見るようなものだったけど、何作か好きな作品だけを見て、ものすごい勢いで会場を抜ける。たぶん滞在時間20分ないくらい(;'∀')
そして日暮里に向かう。うーん、六本木とは空気の軽さが違う。なんだか、大地がじっとりしている。梅雨だからじゃなくて、土地の感じがじっとりとしていて重い土の感じ。なんかいろんな霊さまたちもいそうな。
最近は、霊さまたちをお引き受けするようにしている。「私でよければ一緒に生きましょう」って感じで。
でも、あ~重いな~と身重のような身体を引きずり、ついでにd-倉庫はやっぱり迷子になった。めずらしく夫の方位磁石も若干狂ったようだ(笑)
途中で、クロネコヤマトのお兄さんが道を教えてくれた。とても感じの良い人だった。道が込み入ってるから、このあたりは自転車での配達。大変だ~。
ようやく会場に辿り着き、階段を上がった二階のフロアに受付があった。
見覚えのある睦美さんの顔が見えてホッとした。彼女も舞踏家で、以前田中のパートナーの佳代さんの絵の個展の時にもお目にかかっていて印象的だった。
この日は受付嬢ということもあり、素敵ないでたちで受付に立っていた。彼女の周りにオレンジ色のオーラがきらきらしていた。その空気感に誘われて、客席に向かおうとすると、正面に田中のパートナーの阪東佳代の絵が現れた。田中の舞のタイトルと同じ『風のない子』という絵だ。
そして、その絵と呼応するように、絵の左隣りに田中の師匠の大野慶人さんからのお祝いの花が飾られていた。たぶん、けむり草!けむり草をお祝いに贈るとは!慶人さんがけむり草になって舞っているようなエネルギーを感じた。あ~写真を撮っておけば良かったと後悔。
けむり草は個人的に好きな植物。生きて呼吸しているような形をしている。この世のものとは思えない自然の造形物。凄まじい力を感じる植物。
ここまでまだ客席までの入り口。客席へ向かう下り階段。
客席の一番下の方に舞台が広がり、空間には中央に一枚の布(真ん中割れてて出入り可能)が見え、ちょっと能舞台を想わせる四隅に骨のオブジェが見えた。
基本的に、古典芸能以外の表現は感覚で見るので、解説などは読まない。だから、
この文章に綴られたことと田中の表現したいこととが食い違うかもしれない。でも、それも私と田中の作品の交流であるので良い。
白塗りの身体に黒い紋付羽織をまとった田中が現れる。動きは、いつものように心の繊細な声を表すかのようにシンプルな動きが繰り広げられる。
舞踏の動きは、というか結局表現を突き詰めてゆくと、表現者はごく少ない言葉数でたくさんの表現の質を求めてゆく。
基本的に動きは、「立つ」、「歩く」、「寝転がる」、「足を動かす」、「手を動かす」、「頭を動かす」、「背骨をまっすぐにする」、「回る」、「くねらせる」、「まるまる」、「そらす」、「指を動かす」、まだあるかな。
そんなことの組み合わせと質感をどこまで求めるかということに行きついてゆくのだと思う。これはどんな表現にも通じるものだと思う。
そのシンプルな動きに、その表現者の「いま」が在るか、ということ。
70分間の独舞に挑んだ田中の身体の集中力と精神の柳のようなしなやかな強さ。最初の三分の二くらいの時間は白黒のモノトーンに近い世界の中で、音も音楽ではなく、呼吸と足を運ぶ時のかすかな音を妨げない。
気が付くと自分も田中と一緒に呼吸をしている。まるで一緒に舞うように。舞台の上の空気と客席の空気が融合する時に、表現者の世界は最後の一筆を与えられる。
舞踏に意味は求めない。
でも、この舞に与えられた『風のない子』という名前はなんだったのか。
私にとっては、この作品のテーマなのか?「また、生まれ変わる」という言葉が心に刻まれた。
「生まれ変わる」ということは、どういうことなのか。私たちは日々生まれ変わっているようにも感じている。
今日の自分は明日の自分ではない、とは日々感じるし。
「生まれ変わる」=「脱皮」
この文章を書くまでの数日間の間に、田中の舞を想い、そして浮かんだ言葉は「脱皮」。どちらかとうと「脱皮」。この言葉が出てくるきっかけとなったのは、田中本人からの「今は抜け殻」という言葉。
でも、私からすると「脱皮」。
まるで、蝶や蛾が脱皮して、成虫になり新たな世界に呼吸すること。そして、その脱皮した直後の衝撃を想像してみた。
赤ちゃんがこの世に出てきたときの産声は、この世に出てきた衝撃からの叫びなのか、恐怖じゃないか。今まで小さな空間で母と温もりのある水に守られてた世界から突如、わけのわからない空気の世界に飛び出してくるんだから当然な恐怖。
それに近いものが脱皮後の成虫にも待っているのではないだろうか。
脱皮した誠司が服を着て舞台にいる。
こんなに服を着ているという、日常の姿に違和感を覚えることもめったにない。日常と非日常の迷走。
ナイフとフォークを持って、まるで何かセレモニーに出席するような雰囲気の姿。舞台の真ん中に色鮮やかな花のオブジェ。なんだかお花畑のようなイメージも湧く。
ナイフとフォークももはや食べ物を運ぶものではない。
身体という生身のものとは違う物質的な何か。
洋服とナイフとフォークがあることで、一層生身のものの生々しさが際立つ感じ。
身体という生もの。花も生もの。命あるものへの慈しみ。
赤い命のあったかいものがそこにあった。
こう言葉を連ねてくると、最初の紋付羽織から脱皮して「生まれ変わる」
という時間の流れを考えると、不思議と田中のパートナーの佳代の絵画の世界につながる。
彼女の表現に認められたヤママユ蛾の生涯。
私の勝手な想像。
でも、二人の世界が呼応し合って、新たな表現世界が生まれようとしているのを感じる。