バレエ『エスメラルダ』の旅~ヨーロッパからロシアへ🚃
国境を越えて受け継がれる作品たち
バレエ『エスメラルダ』が、ヨーロッパからロシアにわたったお話は、<バレエ『エスメラルダ』の樹海>という記事にもちらっと書いていますが、改めてこの作品がヨーロッパからロシアに渡り保存され、発展した経緯をお伝えしたいと思います。
初演は、1844年3月9日ロンドンのハー・マジェスティーズ劇場でした。振付がフランス人のジュール・ペロー、エスメラルダ役をカルロッタ・グリジが演じ、大成功を収めたと言われています。
この絵に描かれているのが、振付家自身が演じる詩人のグランゴワール(左側)とカルロッタ・グリジ演じるエスメラルダで、初演当時に発売された版画です。昔のブロマイドみたいな感じと受け取っていただいて良いと思います。
この振付家は1848年までロンドンで仕事をしたあと、イタリアのミラノ・スカラ座を経て、1851年にはロシアのサンクト・ペテルブルクに渡り、帝室劇場のバレエ・マスターとして働くことになります。
ただし、バレエ『エスメラルダ』に関していうと、1848(1849説あり)年に当時人気のバレリーナの一人ファニー・エルスラー(注)が、サンクト・ペテルブルクでこの作品を踊るということで、振付家のペローも上演と演出に参加。その時には、すでにマリウス・プティパは第一舞踊手として帝室劇場で働いていたのです。
当時の様子がこちら!
樽の左側がペロー演じるグランゴワールで右側にエスメラルダのエルスラーが見えますね。この時、その後巨匠としてバレエ史に華々しい作品を残してくれるマリウス・プティパもファビュス役で出演したのです~♪もしかすると、私の想像ですが、
樽の上の人物が、ファビュス役のマリウス・プティパかも!と思うと、この絵はすごいですね~☆彡
ここで、『エスメラルダ』の産みの親であるジュール・ペローとその後、ロシアでこの作品を再構成して引き継いだマリウス・プティパにバトンが渡されました。
その当時のことをプティパ大先生が記録に残してくれているので、引用します!
『マリウス・プティパ自伝』51ページより
「私(プティパ)のモスクワ滞在中、有名なファニー・エルスラーがサンクトぺッてルブルクにやってきた。『エスメラルダ』出演のためである。その少し前にロンドンで初演されたこのバレエで、彼女は主役を演じていた。モスクワから帰ってすぐ、私はこの作品を演出しようと思いたった。そして、第一幕の構成を終えたか終えないかというところ、この傑作の作者であるジュール・ペローがサンクト・ペテルブルクを訪れて、自分で演出に加わってくれた。
その後は、このバレエを演出するたびに、私は作者の指示を忠実に守り、ほかの演出家たちがやっていたような、余計な小細工に走ったりはしなかった。たとえば、エスメラルダと母とのシーンではそれだけで十分に悲痛なのに、カジモドの顎の骨を砕かせるといったたぐいの小細工である。このバレエがサンクト・ペテルブルクで初演された際のポスターをここに再現させていただきたい。
エスメラルダ ファニー・エルスラー
グランゴワール ジュール・ペロー
フェビュス マリウス・プティパ
カジモド ディディエ
クロード・フロロ オルツ
百合の花 スミルノワ
母親 アマソワ
バレエ愛好家ならだれでも、この作品のおさめた大成功を覚えているだろう。主役を演じたのがエルスラーのような大物だったのだから、どうして失敗するはずがあろうか。これはまさに彼女のはまり役で、演技は誰にも真似ができないものだった。・・・」
このようにプティパは、『エスメラルダ』のサンクト・ペテルブルクでの上演に関して記しています。
1886年にプティパはペローのバレエ『エスメラルダ』を再構成し、その後もサンクト・ペテルブルクの帝室劇場で踊り継がれ、ソ連時代に入ってからも1935年にアグリッピナ・ワガノワがプティパの作風を受け継ぐ形で再演出したのでした。
そして、1950年には、モスクワで振付、演出家ウラーディミル・ブルメイステルがソ連の演劇的な作法と音楽を改めて研究した上で、バレエ『エスメラルダ』を創作。
2009年には、モスクワのボリショイ・バレエ団で、1886年版のプティパ版をプティパの振付を記録した資料をもとに復刻上演されたのです。
こちらが、ボリショイ・バレエ団で上演された『エスメラルダ』の第三幕です。
どことなく『ジゼル』の第一幕の終わりの部分を想わせます。もともとの作者がジュール・ペローで同じ人ですから、その息遣いが残されたいるように私には感じられます。
【豆知識】
ちなみに、有名なグラン・パ・ド・ドゥの振付について。エスメラルダのタンバリンのヴァリエーションの入ったパ・ド・ドゥが作られたのは、1940年代のことでした。振付家はピョートル・グーゼフというキーロフバレエ団の芸術監督も務めたダンサー兼振付家でした。
彼の作ったパ・ド・ドゥは、他の振付家によって、生徒のための公演やコンクール用にさまざまにアレンジされているようです。
音楽も、もともと『エスメラルダ』の音楽を担当したチェザレ・プーニのものに加え、リッカルド・ドリゴ、ロムアルド・マレンコRomualdo Marencoという三人の作曲家の音楽で、四つの別々のバレエ作品の音楽を使用しています。
1)二人の登場からアダージオ
リッカルド・ドリゴの作曲で、プティパの作品『王の命令』から
2)男性ダンサーのヴァリエーション
チェザレ・プーニの『エスメラルダ』第一幕第二場から
3)女性のタンバリンのヴァリエーション
ロムアルド・マレンコ作曲のバレエ音楽Sieba ,ou spada di wodanから
4)コーダ チェザレ・プーニ作曲、プティパのバレエ作品『ファラオの娘』から
(資料は、Ballet Music Hand Book by Matthew Naughtin)
このパ・ド・ドゥは、全幕の『エスメラルダ』から独立して、今や世界中で踊られるようになっているのです。
とのことで、シルヴィ・ギエムとパトリック・デュポンの若かりし競演をお楽しみください!(アダージオとコーダのみでごめんなさい!)
せっかくなので、同じくパリ・オペラ座のアニエス・ルテステュのヴァリエーションとコーダ。男性は、ジャン=ギヨーム・バールですね。
ルテステュの控えめでエレガントな踊り方に惹かれます!
バレエ『エスメラルダ』のヤギ🐐
演出のエピソード
バレエ『エスメラルダ』にヤギが登場するのは、1844年の初演の頃から記録があります。こちらの絵をご覧ください。
このバレリーナは、『エスメラルダ』の最初演の時のバレリーナ、カルロッタ・グリジではないのですが、やはり、イタリア人でこの当時グリジともライバルだったファニー・チェリートです。グリジの後に、初演版(ジュール・ペロー版)の主役を演じたバレリーナです。グリジとチェリートが、あるバレエ作品のソロを踊る順番で大ゲンカした話はとても有名(;'∀') ま、イタリア人女性同士ですしね(笑)
本題は、このヤギさんですが、この1844年頃に上演されたころに、生きたヤギを舞台に登場させたかどうかは、ちゃんと確認していません。
生きたヤギを登場させたことが確かなのが、1890年代のロシアです。マチルダ・クシェシンスカヤという皇帝の愛人でもあったバレリーナが、どうやらヤギをペットとして飼っていて、自分の飼いヤギを舞台に登場させたというのです。
この証言は、ボリショイ・バレエ団で『エスメラルダ』の復元を行った、元芸術監督のユーリー・ブルラーカが話していました。
ボリショイの復元版ではこんな感じに♪
気になりまして、そのクシェシンスカヤが非常にかわいがっていた、同じ帝室劇場バレエ団のバレリーナ、カルサーヴィナの回想録を開く。
あった!あった!カルサーヴィナの書いた『劇場通り』という本の163ページです☆彡
カルサーヴィナは、クシェシンスカヤのストレリナの別荘に招かれて、そこで話題のヤギと遭遇したようです🐐
以下、引用です♪
「・・・・マチルダは親しい友達をあと何人か呼んで、ホステス役を完璧にこなしていました。海のすぐそばにある庭園は広々としていて、山羊が何頭かいました。『エスメラルダ』にも出た彼女の一番お気に入りの山羊もマチルダになついていて、まるで犬のように彼女の後を追い回しています。マチルダは、一日中私をそばから離さず、絶えず細かく気を配ってくれました。・・・・」
ちなみに、このクシェシンスキャというバレリーナ。皇帝の愛人という立場を利用して、さまざまな陰謀に加担し、振付家のマリウス・プティパにも注文を付けるなど、わがままぶりが何かと注目されるところもあります。
一方で、カルサーヴィナの方から見ると、非常に世話好きで、仕事に対してもオン、オフの切り替えが素晴らしく、情熱的な人間像も見えてきます。
その当時、ロシアでもイタリア人バレリーナが大活躍して、グラン・フェッテもロシア人のバレリーナでできる人はいなかったのでした。クシェシンスカヤは、当時人気だったピエリーナ・レニャーニ(『白鳥の湖』でオデットとオディールを踊った)がフェッテを回るのを見て、驚いて、猛研究の末、ロシア人バレリーナでグラン・フェッテに成功した初めてのバレリーナと言われています。
上の二枚の写真は、おそらく1899年にクシェシンスカヤがエスメラルダをサンクト・ペテルブルクの帝室劇場で演じた時のもの。
ヤギさん、結構大きいですね🐐
バレエ『エスメラルダ』の樹海
バレエ『エスメラルダ』といえば
ガラ・パフォーマンス(注)で良く踊られるこのパ・ド・ドゥ(主役二人の踊り)やコンクールでも定番の女性のヴァリエーション(一人の踊り)を思い浮かべる人が多いと思います。少しバレエに詳しい人だったら、「ディアナとアクティオン」のパ・ド・ドゥ(直接物語の筋とは関係ない)も思いつくでしょうか。
<アダージオ>
<ヴァリエーション>
<コーダ>
有名なこの二つのバ・ド・ドゥは、どちらもロシアで産まれたものと考えて良いと思いますが、前者の方、つまり主役のエスメラルダと詩人グランゴワール(←男性がこの役柄かちょっと不安なので調べますね)の振り付けに関しては諸説ありそうです。そして、日本ではなかなか見る機会の少ない全幕版に関しての上演史の流れも興味深いです。
このバレエが、バレエ作品として歴史に登場するのは1844年のことで、ロンドンで産声を上げました。振付は、ジュール・ペローというフランスの振付家で、主役のはイタリア人バレリーナで演技力に富んだカルロッタ・グリジでした。カルロッタ・グリジは、『ジゼル』のパリ初演(1841年)で一世風靡したバレリーナでした。
この絵に描かれているのが、振付家ペロー自身が演じる詩人(左側)とエスメラルダのグリジです。残念ながら、この当時の振付作品は残っていませんが、この振付家ペローは、ヨーロッパからサンクト・ペテルブルクの帝室劇場に活動拠点を移し、そこで同じフランス人振付家のマリウス・プティパの先輩振付家として働いていました。
そして、帝室劇場(現在のマリンスキー劇場です)でも『エスメラルダ』を上演したのです。このペローの作品を再構成してマリウス・プティパが残したものが、今ロシアに伝わるものの下敷きになっていると考えて良いでしょう。
こちらマチルダ・クシェシンスカヤ。帝政ロシアのバレエ界の代表的バレリーナで、プティパは彼女のために『エスメラルダ』のパ・ド・ドゥを作ったようです(振付は今のものとは違うと想像できます)。おそらく1898年頃のエスメラルダ姿のマチルダ様です☆彡このバレリーナがなぜかペットにヤギを飼っていたらしく、彼女がエスメラルダを踊った時に、舞台に登場させたようです。プティパ大先生も困ったかもしれませんね(;'∀')あとの映像でヤギさん出てきますw
ただ、作品も生き物なので、最初に作られたものがそっくりそのまま受け継がれているということではなく、それぞれの時代の雰囲気や演出、振付に関わる人の作法によって、作品の本質を変えない範囲での変化があるのは当然です。
今見ることのできる演出として、ただいま来日中の国立モスクワ音楽劇場バレエ団による、ウラディーミル・ブルメイステル版の『エスメラルダ』(1950年初演、2009年に復活上演)やボリショイ・バレエ団で2009年にバレエ史研究で有名なユーリ・ブルラーカが、振付家ヴァシリー・メドゥヴェデフと協力して復元した1886年のマリウス・プティパのヴァージョンなどがあります。
復元に関してのお二人のインタビューが興味深いです。
時代の産物の一つと言えるのがブルメイステル版『エスメラルダ』かもしれません。ソ連の社会主義という時代の中で産まれた作品で、1950年に振付家ウラディミール・ブルメイステルによって振付、演出されました。ブルメイステルの作風の特長として、「演劇性が強い」と表現されるのですが、この表現にいつもひっかかります。ただ、ここに突っ込むと、ただでさえ『エスメラルダ』の樹海なのに、もっと大きな樹海に入ってしまうので、この辺で辞めておきます(;'∀')
一言だけ言うなら、もともとバレエって「無言劇」なんですね。オペラが歌劇でしょ?バレエはそもそも舞踊劇として発展してきているわけですから。踊りで表現する演劇なんです。だから、本来「演劇性に富んでいる」わけですね(#^.^#)
話をもとに戻して、ブルメイステル版の『エスメラルダ』ですが、数日前に東京で国立モスクワ音楽劇場バレエ団(ブルメイステルが監督を務めていたバレエ団)の公演がありました。
ご覧になられた方も多いことでしょう。残念ながら私は今回見られませんでした。今、絶賛後悔中です。1950年に作られたこの『エスメラルダ』ですが、どうやら長い間上演されていなかったようで、2009年に久々の再演だったようです。こちらの記事に詳細が書かれていました。
この演出には、もちろん「エスメラルダ」と言われて思い浮かぶ有名な踊りのシーンは登場しません。ただ、音楽がプーニという作曲家で、バレエ音楽を多く手掛けているので、バレエを学ばれている方には耳に馴染むものも多いことでしょう。
モスクワ音楽劇場の公式サイトの方に、一部紹介動画がありました。
ついでに公式サイトはこちら
全幕版の上演として注目する『エスメラルダ』は、先ほどもちらっとお話ししたボリショイバレエ団で、プティパのヴァージョンを再構成したものでしょうか。
これはオシポワがまだボリショイ在籍中のものですね。2009年初演のファーストキャストは、アレクサンドローワだったようですが。
個人的には、2009年の配役の中(アレクサンドローワ、オシポワ、カプツォーワ)では、カプツォーワが好みかな。
このシーンは、まるで1844年のロンドン初演の絵が動き出したような感じ。
ヤギさん生きてますwバレリーナも大変!生きた動物と言えば、プティパが
『ドン・キホーテ』の演出で、確か本物の馬のロシナンテを登場させたような記憶がありますw
樹海を迷子になってしまってるわけなので、特にまとめもなにもなく、迷子は続くのですが、ついでなので、何が本質か?と思ったら、まずはヴィクル・ユーゴーの原作を読んで、一休みというのもいかがでしょうか。
あら、眠ってしまったかしら?まだまだ、さまよいは続きます☆彡
あ~、やっぱり、「ディアナとアクティオン」も気になります。この踊りを
『エスメラルダ』に挿入したのは、マリウス・プティパ大先生ですが、今の形まで残っている功績は、ワガノワ・メソッドを整えたワガノワ先生のお力のようです。
そもそも、どこから「ディアナとアクティオン」の発想がやってきたのでしょうか?
(注)ガラ・パフォーマンスについて
バレエ公演の形態の一つで、主役級の踊り手たちが、それぞれのバレエ作品の見せ場を踊り競うような公演のことをいいま。世界バレエ・フェスティバルなどが典型的なものです。
【豆知識】蛇足ですが、バレエ用語は、フランス語です。なぜなら、17世紀にフランスの王様ルイ14世が、バレエの決まりをいろいろと整えたからです。
ですから、パ・ド・ドゥPas de deuxは二人の踊りという意味で、Pas は、フランス語で「一歩」とか「歩幅」、そこから転じて「踊り」となります。英語でいうとstepです。
deux が「2」の意味です。ですので、数字を変えると人数が変わります。ただ、一人の踊りの言い方は、ソロsoloとかヴァリエーションvariationという言い方になります。
導かれるがままに☆彡
自分からの解放
土曜なのに5時半起き(;'∀')
今日も娘は6時半に登校で、あと2年続くのです。この生活(;´・ω・)
でも、早起きは三文の得?
頭の冴えはいいw
来月5月25日に、わけもわからないのに参加させていただく読書会の本を注文するために、パソコンを開く。
読めもしないと思う漢文の本、白隠禅師の『夜船閑話』を取り寄せた。本の内容も良く知らないので、少し調べてみたら呼吸法の本のようだ。そして、「内観」という言葉も目に入ってきた。
「内観か~、どこかで聞き覚えがある」と。そういえば、少し前に夫が「内観」について私に唱えていた記憶がある。なんとなく呪文のように身体の記憶に残っている(笑)
朝なので、無意識に思考回路が潤滑に回るのか、書棚に行く。内田樹さんの『修業論』に手が伸びた。たしか、ここに「内観」に触れた個所があったような気がして。
パラパラとページをめくると、目に入って来る言葉は「無知」と「瞑想」。
「瞑想か~、ふ~ん」と。「瞑想」は、この読書会に導いてくれたTさんの生活の中にある営みだったと思い出す。
また、目線の向こうに新しい扉が見えてきているという感覚。その先には、おそらく自分の嗜好とか考え方とか習慣とかそういう自分のコントロール下にある世界とは少し違う世界が展開するような予感。
あら、なんとなくTaoという言葉が浮かぶ。
心の流れのままに書いてみる。
「なぜ今解剖学なのか?」
学ぶことが、即実践につながる環境がある。
外からの知識を身体の感覚にインプットできる。
この間のジャイロキネシスで、先生が丹田の説明の時に
「腸骨棘(腰骨が左右に一番出っ張ってるところ)を結んだ
お腹の中心部あたりがわかりやすいです」と説明されて、
ちょうど、前日に解剖学で学んだ場所で、学びと身体感覚が繋がる
嬉しい瞬間。
その腰骨の左右のでっぱりの感覚から次の連鎖。
モーリス・ベジャールの言葉が浮かぶ(映像の4分30秒から)。
身体は、身体の正しいポジションをそれ自体できちんと教えてくれる。
久しぶりにこの映像を見た。やっぱり、身体の中が熱くなる。
この時代の「20世紀バレエ団」のパッションに打ちのめされる。
20歳くらいの時に、渋谷のユーロスペースでこの映画を見た。
ものすごく感動して、わけもわからないのに、
「この映画にいつか関わる」なんて思った。
それが、15年後くらいに実現した。
ある筋からこの映像のDVD化の話を知る。
「解説を絶対に書きたい!」というすさまじい欲求だった。
まさかの実現。
思いはつながるということ。
だいたい、わけもからず行った方が
考えすぎて行くより、上手く流れるもの。
土曜の朝の言葉の流れに身を任せて、
キーを打つw
こんな私の日常。
あ~今日も良い日です(*^▽^*)
はじめての解剖学☆彡
人間の身体は宇宙のようです♪
今更ながら、きちんと解剖学なるものを初めて学んでいます。
日本でバレエの指導に「解剖学的アプローチ」ということを掲げて、バレエセミナーが開催されたのが25年前。札幌芸術の森バレエセミナーが草分けと認識しています。
ちょうど私がバレエを休んでいる間に、バレエの指導法や指導の環境も随分変化していて、今現役でバレエ指導されている方やダンサーの多くの方は、きちんと解剖学を学び、身体の仕組みを理解した上で、日々の稽古に向き合われているのだと想像しています。
私はかなり出遅れましたが、ここのところインターネットの普及などで、十分な情報処理能力を問われる時代にある中、自分自身の中にきちんとした判断基準を養うためにも、客観的に「感覚」だけに頼りすぎない知識を身に着ける必要を感じました。
もちろん、踊るときは、全身の感覚を研ぎ澄まして、心を開放して踊りたいと思います(*^▽^*)だって、踊っているときに、「ここの何とか筋がとか、この何とかという骨がとか」なんて考えていたら踊れないですからねw
ただ、ジャイロキネシスやスローストレッチのようなコンディショニングの中で、解剖で学んだことを実際の動きの中で確認できたり、動かすところを実際的に意識できる環境があって、とてもありがたいです。
そして、大事なことは情報に振り回されないこと。
たとえば、一時期「ストレッチを運動前にすると逆効果」というような情報が流れたことがありました。
私自身は、この「ストレッチを運動前にすると逆効果」説に、疑問を持っていました。実際、自分がバレエのレッスンを受ける前に、十分なストレッチがあるクラスとそうではないクラスを受講した時の身体の違いは大きく、断然ストレッチを十分に行った方が身体は良く動いてくれますし、コントロールも上手くいきます。
そんなことからも、昨日ストレッチ理論の講座で、講師の先生に質問したところ競技内容によってストレッチの仕方が違うとのことでした。具体的に、バレエなどのダンス系、フィギュア、体操など関節の可動域の拡大と柔軟性を前提に展開する運動の場合は、ゆっくりと反動をつけないストレッチが有効で、ほかのサッカーやアスリート系の運動の場合は、運動前に早く身体を動かすようなアクティブストレッチをするのが良いとのことで、スローストレッチはクールダウンに効果的だとのことでした。
要は、運動の種類によってパフォーマンスの質を向上させるために適切なストレッチがあるということです。
さまざまな研究データのもとに説明していただき、やはりきちんと学ぶことの大切を改めて感じた日となりました。
そして、骨の構造や動き方、動かし方を知るにつれ、人間の身体の奥深さは、宇宙のようだと感動するのでした!
情報とのかかわりも、踊りも自分の「軸」さえしっかりしていれば、
ブレずにいられるのかもしれないと思います(*^▽^*)
元パリ・オペラ座エトワール、イザベル・ゲラン復活!
10年のブランクからの復活!新境地を拓く!
パリ・オペラ座のイザベルと言うと、今の時代ならシアラヴォラでしょうけど、
私のように舞台を見まくったのが、80年代後半から90年代前半までの世代にとっては、イザベルと言えばゲランだし、デュポンと言えばパトリックなのです。
ゲランの踊りの中で、一番好きなのはなんといっても『バヤデール』のニキヤです。この時の相手役のソロルは、ローラン・イレール、ガムザッティがエリザベット・プラテルという配役でした。 イレールも一番ノリノリの時期だと思います。
ゲランのニキヤとプラテルのガムザッティの二人のソロルをめぐる言い争いのシーンは歴史的な名演だと勝手に思っています(*^^)v
このシーンは、ニキヤがあガムザッティの陰謀で死んでしまうシーンです。若干映像が細長いのはお許しを!
なんと、ゲランがこの度10年ぶりに舞台に復活するというではありませんか!
パリ・オペラ座のエトワールは引退の年齢が決まっていて、基本的に40歳には舞台にお別れをするのです(マニュエル・ルグリのような例外もありですが)。だいたい、引退後はバレエ学校で教えるとか、オペラ座で後進に振付指導するとか、後は、踊り続けることを選択する人もいます。
ゲランは、オペラ座引退後、ニューヨークにパートナーと娘さんと移り住み、娘さんとの時間を大切にする生活を選んだようです。この記事によると、時々ゲスト・アーティストとしてガラ公演に参加したり、欧米のバレエ団でバレエ作品の指導をしていたようですが、背中の痛みが出たことで、バレエのレッスンを再開したとのこと。そして、レッスンをすると背中の痛みが良くなったようです。
そして、すぐに再度舞台に立つことを夢見たと。きっと、身体が教えてくれたのでしょうね。舞台に戻りなさいって。この写真を見ても、現役時代と大差ない身体の仕上がりに感じます。
写真は以下の記事から引用。
イザベル・ゲラン54歳の再出発。きっと、オペラ座時代とは違う、一人の女性として充実した、彼女の新たな表現世界を切り開いてくれることでしょう。
日本でも、新生ゲランの姿が見られるといいですね☆彡
ちなみにゲラン復活と聞いて、ふと思い出したのが、プリセツカヤの『ボレロ』。
同じく50代にして、ベジャールの『ボレロ』に挑戦したバレリーナ。
ダンサーという種族って、本当にすごいですわ。
4月からまた学生になります('◇')ゞ
母への想いから
母がこの世を旅立って早2年が経ちました。まだまだ、気持ちの整理もつくこともなく、何かにつけて涙がこみ上げます。それでも、日々母に語りかけるように、母が一緒に楽しんでくれているようにという思いで過ごしています。
「あなたは踊ってればいいのよ。私がそう育てたんだから」と、介護で東京=札幌間を行き来している頃に、母が私に言いました。
私には意外な言葉でした。母にとって私は、わけのわからない娘だと思っていたからです。でも、介護の間、いろいろと話すうちに、「きっと母にも夢があったのかな」と思うようになりました。この時間に、やっと私たちは本当の「母と娘」になれたようにも感じています。
母は四人姉弟の長女で、戦後の復興する日本を生きて来て、ずっと我慢を強いられていたのかもしれません。妹や弟はフランスや英国に留学させてもらえたのに、母は19歳くらいで父と知り合い23歳には結婚。24歳の時には私が生まれていたのです。
父はある意味自由人でした。母は、三人の子どもに夢を託すようにいろいろなことをさせてくれたのかもしれません。そう思うと、生きている間にもっと何かしてあげれば良かったと後悔することも多いです。
ふと思い出すのは、病院のベッドの上で、手首と足首を回している母の姿です。病気が進行し、あまり動けなくなった母に私が教えた運動です。
少しでも筋力を保てるように、少ない力でできる運動を教えてみました。時には音楽を流しながら、母はなんだかよろこんで手首や足首を動かしていました。母は最期まで自分の尊厳を守り抜くという生き方を私たちに示してくれました。
その姿が私の背中を押してくれたような気がします。この4月からまた学生になることにしました、と言っても最長6か月です('◇')ゞある資格を取ろうと思います。私は、
本来資格には否定的です。短期間で簡単に身体に関する技術を習得できるなんて、と思っていました。いまでもまだ懐疑的です。
でも、今回は夫の薦めもあり入学説明を兼ねた勉強会に参加しました。そして、短期間で資格をなぜ取れるのか、十分な技術や知識が身につくのか、それが実践できるほどのものとなるのか、など勉強会の担当講師にも質問しました。
いままで疑問に思っていた身体に関することも質問しました。二人の講師の方が、淀みなく的確に答えてくれました。その伝え方、説明の仕方に非常に納得しました。
お二人とも30代で、とても研究熱心。お一人は最近バレエダンサーのケアもされているとのことで、ついいろいろ質問してしまいました。
解剖学的なことから介護のことまで、丁寧に説明してくださいました。資格うんぬんより、この人たちにいろいろ教わりたいと強く思ったのです。現在のスポーツ科学
の研究も目覚ましいことを知りました。今の時代の知識や情報、そして、溢れる情報をどのように整理し、自分なりに理解の助けにするかということも学びたいと思います。
もちろん、人間の身体が科学でだけ説明できるものでも、解明できるものでもないことは、母の病気を通じて良く理解しています。でも、客観的に今の知識や技術を学ぶことは、これからの私の歩みにとって大切だと思いました。いままでの経験によって培ったものをもっと理論的に整理して、人に伝えることにつなげたいのです。
目的は、学びです。いつまで学ぶのよ!という感じですけどね(;´・ω・)結果として、資格が取れたら、私にとっては社会貢献への大きな一歩となるでしょう。
私くらいの年齢になってくると、周りには介護やご自身も身体の痛みを抱えている方が増えてきます。
ある意味、若いころには「有った」いろいろなことが「無い」状態になってゆきます。その時間をいかに豊かに過ごすか、ということを考えても、私が今目指していることは、周りの方たちのお役に立てるのではないかと思うのです。
そして、今までお世話になった方、ご指導いただいている先生方への恩返しにもなると信じています。
夏までには結果が出ると思います。それまでは、また草鞋が増えて、そして家族にもまた協力してもらわないといけなくなると思いますが、学び収めと思って見守ってもらいたいと思います。
あ~試験とか、どんどん無くなっている記憶力との闘いですが、楽しみながらがんばります!
母が病気の時に、病室の皆さんと歌った唄『いっぱいの珈琲から』
奇しくも母が生まれた昭和18年の唄。
この曲を聴くといろいろな想いがこみ上げます。歌はどんな時も、人の苦しみや現実を忘れさせてくれるものだと思いました。
札幌に帰り数日間病院に通い、東京に戻るときの胸が裂けそうな気持ちで空港に向かった日々は忘れません。
「このお部屋にいる方とはもう二度と会えないかもしれない」という現実と向き合う日々でした。
でも、どんな時も希望を持ち続けなければならないんです。生きているというこの瞬間を大切にするために。