Salle d’Aikosoleil

バレエ史についての備忘録 日々の食について

幸せの青い鳥はすぐそばに♪

冷戦時代の米ソ合作映画『青い鳥』を想う

 日々の生活の中で、とても「大切なこと」や「大切なもの」は

すぐ身近にあるのに、なぜか遠くまで旅をしてしまうことがあります。

 でも、きっとその旅はその時の自分にとって必要だから、

神様か仏様かご先祖様かわかないけど、与えてくれることだと思うのです。

 そんなことを考えると、いつも思い出すのが子どもの頃に大好きで、

録画して何度も何度も繰り返し見ていた、米ソ合作映画『青い鳥』です。

 

青い鳥 [DVD]

青い鳥 [DVD]

 

 

 最初に見たのは、単純にこの映画がバレエ映画で、テレビで放映されていたからでした。そして、当時憧れのバレリーナ、ボリショイ・バレエ団のバレリーナ、ナデジダ・パブロワが青い鳥を演じていたから(#^.^#)

 そのほかのシーンでもレーニングラード・バレエ団(現マリンスキー)のダンサーたちが登場して、ソ連バレエのレベルの高さを見せてくれました。

 光の精を演じるエリザベス・テーラーのこの世のものとは思えぬ美しさと

ジェーン・フォンダ演じる夜の精の地から湧き出るような存在感のコントラストが子ども心にかなり強烈な印象でした。

 二人のかわいいチルチルとミチルが、大切に飼っていた青い鳥を探しに、さまざまな世界に出かけます。

 確か天上の世界だったかしら、赤ちゃんが生まれるのを待っている国にまで旅をするのです。 二人は、旅を通じていろいろな経験をして、両親の待っているお家に戻ります。なんと大切な青い鳥はそこにいるではありませんか。

 皆さんもよく知っているメーテルリンクの「青い鳥」の物語。

でも、この映画の中で二人を旅に導いた光の精は、実はお母さんだったのです。

エリザベス・テーラーが、光の精と母親の両方を演じていました。子どもだったころには気づかなかった、演出の妙を感じます。

 

 自分が母親になって、改めてこの映画を思い起こして、

初めて感じるこの映画のぬくもりです。

 

 皆さんの青い鳥はどこですか?

 

☆映画の情報はこちら☆

ロシア映画社アーカイブス「青い鳥」

 

☆原作も読んでみてくださいね☆ 

 

 

国境なきアーティストたち

 いつもバレエ関係でものを書くときに一番悩むのは、ダンサーとか振付家のプロフィールの出身地とか国籍なんです。生まれたところとか国なんだから、つべこべ言うことでもないんですけどね、変なところが気になる性質なのです。

 

 昨日の朝、FBの投稿を通してドイツで踊っている櫻井麻巳子さんとういダンサーと

彼女が踊った作品について話していて、そこから私の中で湧き出たことをお伝えします。

 

 麻巳子さんとは、二年前にプロジェクトLUCTという活動を通して知り合いました。最初の印象は黒目が大きくてチャーミングで、少し義妹に似ていたせいか親近感があり、すぐにいろんなお話をするようになりました。

 

   <プロジェクトLUCTについてはこちらのURL>

  ectluct.wix.com/projprojectluct

  (ここから飛べなくてごめんなさい!コピペしてください!)

 

 LUCT主催のバレエセミナー期間中も、彼女が所属しているギーセンダンスカンパニーの活動などつについてもたくさんお話ししました。印象的だったのは地域の保育園でダンスの指導をした時の子どもたちとの関わりについてのお話でした。

 

 昨日の話の発端は彼女が踊った作品の一枚の写真でした。

 その写真をこちらに載せたいのですが、ちょっと著作権が気になるので、使わせていただけるか確認します。

 

 その踊りの動きが「フォーサイスとかキリアン」みたいだと思ったので、そのように彼女に伝えたら、「この作品は、フォーサイスのカンパニーで踊っていたPascal Touzeauの作品なんですよ!」と教えてくれました。

 20年前には新進気鋭の振付家だったフォーサイスのスタイルも、すでに現在は、彼の後に続く振付家たちによって継承されるものとなり、ダンスの世界の流れと変化を改めて感じました。

 そして彼女がその流れの中で表現者として生きていることにも喜びを感じるのです。

 

 その話から「そういえばフォーサイスもキリアンもノイマイヤーもみんな大元は、ジョン・クランコなのよね」と心に浮かびました(またまた、いっぱい横文字の名前が出てきてごめんなさい^_^;)。

 よく考えてみると、4人ともドイツのバレエ界(いや、世界のバレエ界かなw)を盛り上げた20世紀から21世紀の歴史に名を残す振付家たちです。でも、全員ドイツ人じゃないのです。

 

 例えば三人のボスのジョン・クランコは、1927年南アフリカルステンブルク生まれ(父オランダ系南アフリカ人、母イギリス人だって)。バレエ教育は、初めケープタウン大学バレエ学校で、のちに英国ロイヤルバレエ学校に入学して本格的にバレエの道に進みました。

 振付家として精力的に活動したのはドイツのシュツットガルトで、このバレエ団を国際的な地位に高めた人。大酒飲みで確か亡くなったのは飛行機の中で、空中だったのです(1973年没)。

 クランコは、「しらふでは仕事ができなかった」とあるバレエの先生で日本人で初めてシュツットガルト・バレエ団に入団された方に伺ったことがあります。ウィキペディアには、「しらふの時に振付して、それ以外は酔っ払い」と書いてあるけど、どっちが本当かしら。

 

 この映像は、クランコの英国時代の作品で、ディアギレフのバレエ・リュッスの影響満載です!

 


John Cranko - Pineapple Poll - YouTube

 

 英国バレエのルーツは、ディアギレフのバレエ・リュッスと言ってもいいくらい。バレエ・リュッスは、帝室ロシアバレエの伝統を受け継ぎつつ、新しい表現を求めた集団で、国境のないアーティスト集団の象徴のようなバレエ団です。

 

 次に、ジョン・ノイマイヤーは、1939年生まれのアメリカ人。アメリカでバレエ、ダンスを学びつつ、大学卒業後英国ロイヤルバレエ学校とデンマークでバレエ教育を受け、その後ジョン・クランコのシュツットガルト・バレエ団のオーディションを受けて入団。フランクフルト・バレエ団を経て、1973年ハンブルク・バレエ団の芸術監督となりました。

 ノイマイヤーのハンブルク・バレエ団就任直後の初期の作品でマーラーの『第三交響曲』。


Third Symphony of Gustav Mahler - Ballet by John Neumeier - YouTube


 
 イリ・キリアンは、チェコプラハ生まれ。やはり英国ロイヤルバレエ学校で教育を受け、その後、シュツットガルト・バレエ団に入団し、1973年にはオランダのネザーランド・ダンス・シアターに副芸術監督として入団、その後1978年には芸術監督に就任。キリアンの作品はこちらをチョイス。キリアン作品を初めて見て印象深かった『シンフォニエッタ』。

 Sinfonietta - Jiří Kylián - Vidéo Dailymotion

 

 そして、一番若いウィリアム・フォーサイスもノイマイヤー同様にアメリカ人。1949年生まれで、ダンサーとしてはアメリカのジョフリー・バレエ団でのキャリアから始まった。ドイツのシュツットガルト・バレエ団に入団したのは、1973年で当時のヨーロッパで一番刺激的な活動を展開してたバレエ団だったとの理由からでした。

 確か何かのインタビューで、「クリエイションの源はスーパーマーケット」と言っていたのが妙に面白かった。

 

 フォーサイスの衝撃は、やっぱり『インプレッシング・ザ・ツァー』。確か神奈川で見た記憶。

 これがシルヴィ・ギエムのために振付けられた「イン・ザ・ミドル・サムワット・エレヴェイテッド」のシーン。 


In the middle somewhat elevated: Sylvie Guillem-Laurent Hilaire - YouTube

 

 あと有名なのはラストのこのシーン。48秒くらいから。

 


William Forsythe's Impressing the Czar (Royal Ballet of Flanders) - YouTube

 どちらもフランクフルト・バレエ団の映像は見つからなかった。

 クランコは、新人振付家の育成にも熱心で、その結果がノイマイヤー、キリアン、フォーサイスという稀有の才能を世に送り出したわけです。

 
 フォーサイスは、その後フランクフルト市文科省の任命で、1984年にフランクフルト・バレエ団の芸術監督となり、2004年のバレエ団解散まで在籍。フォーサイスは現在小規模なカンパニーを率いて世界中で活躍しているようです。

 定住地から解放され、まさに地球を股にかけて活動する振付家の一人となりました。

 

 ドイツという国は、歴史的に新しいものを受け入れる寛容的な土壌があったようです。常に時代を切り開くエネルギーに満ちた人材を輩出してきました。
 ドイツではバレエ団の設立は意外に遅く、ほとんどが20世紀に入ってからのもので、急成長を遂げました。逆に20世紀初頭はモダン・ダンスの動きが活発でした。

 バレエを受け入れないグループ(メアリー・ウィグマンなど)とバレエを受け入れてメソッドを確立していったグループ(クルト・ヨースなど)に分かれつつも、ドイツ表現主義という表現を提案していました(その源流はルドルフ・ラバンという人物だけど、また別の機会に詳しく書こうと思います)。

 

 『緑のテーブル』クルト・ヨース振付

 


jooss la mesa verde - YouTube

 
 ドイツにに限らず、ヨーロッパではクラシックバレエコンテンポラリーダンスの距離が遠くないように感じます。このことは、新国立バレエ団の元監督だったディビッド・ビントレーさんもインタビューした時に仰ってました。

 壁が低い、壁がないという感じです。「壁」は、時に守ってはくれるけど、発展の妨げになることもありますね。

 時に、人間は自分たちで決めた線や壁に囚われてしまっているように思うのです。世界の人々が心をバリアフリーにボーダーレスにすれば、いろんな問題は解決してゆくような気がするのは、私が極楽とんぼなのでしょうね。

まさかのドイツ表現主義の森へ~迷子のダンサー奮闘記

元ヴッパタール舞踊団、市田京美との出会い

 遡ること早5年。

 いまでもあの時間が奇跡のように蘇る。

 2009年8月の東京ドイツ文化センター。

 ピナ・バウシュ率いるヴッパタール舞踊団に長年在籍し、

ピナ・バウシュの黄金時代の作品と時代をともに創り上げてきたダンサーの一人、

市田京美とそのパートナーのトーマス・デュシャトレのWSが開催された。

 いまだから話すけどあまり自分の意志ではなく参加した。ダンスジャーナリスト

長谷川六さんの薦めで受けたのだ。このWSの企画も長谷川さんだった。

 そして、ドイツ文化センターはピナにとっても縁のある場所だったと、

あとから市田が語ってくれた。

 

 この2009年という年は、市田にとっても忘れ得ぬ年となったことだろう。

そう、ピナ・バウシュが6月30日にあの世に旅立ってしまったのだ。

 

 WSの空気も特別だった、私の記憶では。

 

 前半は、市田によるクルト・ヨース(ピナの先生)のテクニックのクラスで基礎的な動きを身に付けてゆく。

   

f:id:aikosoleil:20150217215942j:plain

右からジャン・セブロン、クルト・ヨース、ピナ・バウシュ、エリカ・ファブリ。

ヨース振付『緑のテーブル』のリハーサル風景、1964年ころ。

 

 クルト・ヨースのテクニック?と思うけど、

 クルト・ヨースはドイツのモダンダンス界の中でも、クラシック・バレエの要素を取り入れたメソッドを確立した人。バー・レッスンなどはクラシックと通じるところもある。 

 テクニックの基本は、シンプルでニュートラルに、体の中から動く。動きの形を追うことが目的ではなく、形だけで動いていたらすぐに市田に見抜かれる。

 「まっすぐ立つ」、「歩く」、「呼吸する」という普通に生活する上でも当たり前のことが、実はまったくできていないことに気づく。そこからの出発。

 0からじゃなくて、私の場合はマイナスからの出発という感じだった。でも、もともと、「できないこと」に対して燃えるタイプで、やる気スイッチ完全オンとなってしまったのだ。

 マーサ・グラームのモダンダンスを3年ほど勉強していたけど、クルト・ヨースのコントラクション(身体を収縮させる動き)は、マーサのものよりきつく、クラシックバレエベースのレッスンを日常的に受けている身体には、かなり慣れるのに時間がかかる。5年経ったいまでも、毎日身体に叩きこまないと正しくできないと思う。

 

 受講生たちの必死な気持ちが、広いドイツ文化センターの会場に充満しているのを感じて、その時間と空間の密度に感動していた。

 

 受講前は、バレエ史だけではなくダンス史も勉強しているから、ドイツ表現主義もその舞踊についても知識はあった。クルト・ヨース=『緑のテーブル』、ドイツ表現主義=魔女みたいな踊り(メアリー・ウィグマンのイメージ)で、なんか感情表現が強すぎるな、というくらいの気持ちの向けようだったけど。

 

 ピナ・バウシュにも縁がなかったし、自分の好みの世界からは遠いとも感じていた。でも、せっかく東京にいるのだから、いる間にしか体験できないことをしないとと思い、1989年にヴッパタール舞踊団の『カーネーション』の国立劇場での公演のチケットを求めた。9月7日の公演だったと思う。なぜか記憶に鮮明なのは、祖父がその日に亡くなり、急きょ故郷に戻らなくてはならなくなったから。年号も昭和天皇がご逝去の年だから忘れない。軍人だった祖父は、天皇の後を追うようにこの世を去ったのだと、家族はみんな思っていた。

 

 その後、フランス滞在中にパリのテアトル・ド・ラ・ヴィルの前を通りかかったときに、偶然ピナ・バウシュの公演をやっていた。

 これは国立劇場のリベンジ!と思い、チケット販売の窓口に行ってはみたものの、パリでもピナの人気は高く、当然売切れ。二度目もピナとヴッパタール舞踊団には出会えなかった。

  

 三度目で、まさか自分がピナ・バウシュの『春の祭典』を踊るなんて、そのころまったく想像もしていなかったし、今だって自分がドイツ表現主義の森に足を踏み入れたこと自体信じられていない。結局、ピナ作品を見る前に踊るという事態になるなんて!

 市田のテクニックのクラスの後に、パートナーのトーマスの表現のクラスとなった。コンタクト・インプロヴィゼーションとか感情を身体で表現するようなワークもやったけど、一番強烈に身体自体が記憶しているのは、『春の祭典』を参加者全員で踊ったこと。

 集まったメンバーもさまざまで、バレエ畑の人、ジャズダンス、コンテンポラリーの人、それこそ舞踏の田中誠司さんとはここで出会った。市田のクラスのバーレッスンで、後ろに田中さんがいて一緒にレッスンしたことが今でも瑞々しい像として蘇る。

 

 『春の祭典』といったって、ほんの数小節のフレーズだけど、みんな必死。その時の一人一人のムーブメントのエネルギーが呼応しあって、そこの空気の密度が濃くなって、一人一人の動きが一つの大きなムーブメントに発展し行く感触がたまらなかった。

 奇跡の時間のように感じていたら、トーマスが「京美、見てよ。見てよ」って

少し興奮したような声で私たちの踊りを見ていたように感じた。

 

 『春の祭典』は、市田にとって特別な作品。彼女は「生贄」を踊ったのだ。きっと、音楽を聞くだけでピナと過ごした濃密な日々、ダンサーとしてはラッキー(市田は良く使う言葉)な歩みだったとはいえ、ピナのカンパニーでの苦しかった日々、さまざまな感情が起きていたのではないかと想像していた。

 


Pina Bausch - répétition Sacre du Printemps - YouTube

 

 『春の祭典』の動きを身体で感じようとする。動きを覚えて動こうなんてできない作品だと、自分でやってみて初めて思い知る。自分の意識のようなものが身体の中に埋もれてゆくような感覚だった。

 ストラヴィンスキーの音とトーマスの声とそこにいるダンサーたちのエネルギーが

何かを生み出しているという感覚に虜になってしまっている自分がいた。

 そこにいたダンサーは二度と同じメンバーでは集まれない。数人しかそこにいた人のことも覚えていない 何人くらいいたかも覚えていない。

 十数人だったと思うけど、その十数人の思い、感情と動きが空気の塊のようなものになってゆくプロセスを感じた濃厚な時間だった。

 


Stravinsky- Rite of Spring "Opening" - YouTube

 (WSで踊ったのは映像の6分5秒くらいのところから)

 

 まさか自分の意志ではなく参加したWSに何年も通い続けるとは思っていなかったし、市田にインタビューをして文章をしたためることになるとも考えていなかった。

ましてや、市田の東京での活動の手伝いをすることになるなんて、神様がいたずらしたとしか思えない(笑)

 理由は?と聞かれたら、ちょっと恥ずかしくてここには書かない(笑)

お知りになりたい人はWSでお待ちしていますので、その時にお伝えします。

 

 ということで、この度東京でWSを開催することとなりましたので、ご案内も兼ねて

市田との最初の出会いについてつづろうと思った次第。

 

市田京美ワークショップ@新宿ご案内>このWSは終了しています。

 

「立つ」「歩く」「呼吸する」という

ムーブメントの基本を見つめ、

長年ピナ・バウシュの創作活動を共にした

市田京美が、ピナのスピリットと

踊る身体の基本をお伝えするWSです。

 

 ピナの世界にご興味のある方はもちろん、初心者、ダンス未経験者、

さまざまな表現活動に関わっている方、からだの意識を変えたい方など

特にダンス経験を問わず参加可能です。

 

 もちろん、ダンスをされている方も大丈夫です。

いままでの自分のからだとは違う世界を感じることができるかもしれません。

 そして、二度と出会わないかもしれない人たちとの

大切な時間を共有してみませんか。

 

 

日時:3月28日土曜日 12時半から14時半

     29日日曜日 12時半から14時半

定員は各日15名(予約制)

 

運営上の都合で、予約制とさせていただきます。

スタジオの環境上、人数に限りがございますので、お早めにお願いいたします。

できるだけ参加者の方には、充実した時間を過ごしていただけるように

心がけたいと思います。

慣れない動きもあるかと思いますが、心とからだを解放して動いてみてください。

いままでと違う自分のからだに出会えますよ☆彡

 

受講料(2時間クラス):一般  3,500円

           大学生 2,500円

           中高生 2,000円

    一般の方二日間通し券 6,000円

        親子参加一日 5,000円

 

※二日間の通し券は、参加初日(28日)に二日分お支払をお願いします。

場所:ブラッツスタジオ シアターブラッツ内のスタジオです。

 新宿区新宿1-34-16 清水ビルB1

 電話番号:03-3353-1868

 アクセス:丸ノ内線 新宿御苑駅(3番出口)から徒歩3分

      副都心線 新宿3丁目(C7出口)から徒歩5分

      JR・西武新宿線 新宿駅 徒歩15分

 元厚生年金会館が道路を挟んで反対側にある建物の地下一階です。

 

地図:http://www.theater-brats.jp/CONTENTS/bbs_access.html

 

入室は、12時から可能です。受付もいらっしゃり次第いたします。

15時までに退室をお願いいたします。

 

【申し込み先】

池田愛市田京美東京マネージャー)

 メール:Aikosoleil@aol.com

    もしくは、

     Aikosoleil@gmail.com(「市田WS」とタイトルをお願いします。)

 まだガラケーなのでラインはやっておりません。申し訳ありません。

 

<FBページ> 

池田愛子:https://www.facebook.com/aiko.ikeda.1401

     

市田京美ダンスワークショップ(池田が管理しています) 

          https://www.facebook.com/Kyomi.Ichida

  

 

 FBページからのアクセスの場合は、メッセージでの

お問い合わせ、申し込みをお願いいたします。

 

また、同日程の夕方17時30分から19時まで

田町のアーキタンツスタジオでは、ダンス経験者対象の市田京美WS,も開催されます。

新宿のクラスを満喫して、もう少し動きたい方はどうぞそのまま田町まで

足を運んでください。

 

 

 

 

 

 

音舞の即興界『寂氷の花』~舞踏家 田中誠司WSとパフォーマンス 

特に舞踏が好きなわけではないけれど

 2月8日に奈良に拠点をおいて活動を展開している田中誠司さんのWSとパフォーマンスに夫と一緒に立ち会った。夫はパフォーマンスを退席したが、WSの時間を一緒に過ごして、とても良い時間だったとの感想。

 

 正直言うと、特に舞踏という表現が好きなわけではない。

 

 はじめの舞踏体験は、20代の頃にお世話になったダンスジャーナリストの長谷川六さんに芦川洋子さんのアトリエに連れて行ってもらったり、笠井叡さんのニジンスキーだったか、そんなタイトルの映像を見せてもらったこと。

 芦川さんのアトリエでの時間は「強烈」、それが体に残っている。笠井さんの舞は、いまでもあのテレビのブラウン管の中から飛び出てきそうな姿を思い出すくらいのエネルギーで、好みをつべこべ言う隙がない「圧倒的」な表現だった。

 でも、しつこいけど「舞踏が好き」というわけではない。舞踏に詳しい人とか好きな人には悪いけど、この言い方が私にとって一番しっくりくる。 

 じゃあ、どうして見るのか?

 

 まずは、誠司さんの舞に最後に立ち会ったのは、大野一雄先生が亡くなった後、東京の森下スタジオでのパフォーマンスだったと思う。その時は、家族4人で立ち会った。

 細かいことは覚えていないけど、彼は舞う中で「お・お・の・か・ず・お!」と叫んだ。終演後に、「どうして?」と聞いたら、彼は「その名前が出てきた」と言った。なんかいい!と思った。

 初めての出会いも印象的だったのだけど、この時の「出てきた」ということが、とっても自然で、素敵だと思った。

 田中誠司という人は、自分のからだを通して「いま」を語る人、「いま」を伝える人だと確信した瞬間だったのかもしれない、いま思うと。

  

 何か表現に惹かれる私の判断基準は、きっとその表現者の「いま」が

その時間の中で生ききられているかということなのだろう。

 

 数年たって、私自身もいろんな意味で変化していると思う。そして、今回のタイミングで再会したいと思った。

 

 フェイスブックにも書いたこと。

これは2月9日月曜日の言葉だから、24時間ほど過去の言葉。

 

目白にある古民家ゆうどにて、
大好きな舞踏家田中誠司さんの
公開ワークショップとパフォーマンスに
立ち会った。

数年ぶりの再会で、
いろんな意味で大きくなった姿が
心から嬉しかった。

古民家ゆうどの空間が、
まるで田舎の実家に戻ったようで、
庭に聳える赤目柏の木の
繊細でエネルギーに満ちた
立ち姿が、心に深く刻印された。

あの時間には
「立ち会う」という言葉が合う。

久しぶりに夫婦で、
出会ったころに住んでいた地で、
一緒に座禅をしていた時間に戻ったようだった。

6人のワークショップ参加者が、
赤芽柏の樹霊が見守る中、
時間を追うごとに変化してゆくさまを
見つめることができるその感触が、
妙に心地よい。

古民家の呼吸する木の空間で、
立つ、歩く、そして、
方向を変えて、地に戻る。
そして、再生というシンプルな
ムーブメントの中に、
舞う人と見る人の
「いま」が生きていた、
そんな時間だった。

ワークショップ後は、
田中さんとトランペットの川村祐介さん、
ソプラノサックス&ディジュリドゥ安藤裕子さんの即興セッション。
ソプラノサックスは、まるで尺八の音色。
川村さんのトランペットの奏法も
まるで日本の笛のように響く音を出す。

田中さんの「切実なからだ」は両性を超え、

彼の「いま」を語り切っていたように
伝わってきた。
感謝☆

  

 舞踏の内容がどうとかは、他の人に任せる。 

 私にとって、田中誠司さんとあの古民家「ゆうど」に集った人たちでしか

創造できない、視線の糸が縦横に張ったような緊張感の中でのすさまじい「いま」があった。

 

WS

 受講者の「メタモルフォーズする身体と空間」を目の当たりにする。

 

「メタモルフォーズ~変容」という言葉。

 ずっと知っていた言葉だけど、自分の身体で実際的に感じ始めたのは、ごく最近。

 私なりの理解だけど、稽古(バレエ)をしていると、始まる前の自分と稽古が終わった後の自分が、「変化」している感覚が毎回ある。

 自分自身の身体の変化は、おのずと同じ空気を吸っている人たちやそこの空間をも違う質感に変えてゆく感じがする。

 この感覚を、田中誠司はWSの中で、受講生に体感させる。 本当にシンプルな動きでも、集中力、自分との向き合い、空間との関係性に意識を向けて営むだけでも、ものすごいエネルギーと充実した世界が生まれる。

 

 ★即興の時間

 古民家ゆうどの座敷を舞台に、庭が素晴らしい舞台装置、いや装置という言葉ではあの雰囲気は表せない。庭が花道のようであり、借景となり、内と外の空間が混じりあう。

 赤芽柏の木が地から光を注ぐように、可憐に佇む和紙のような紙で仕込まれた一輪の白い花と白い鳥。そこに数匹の猫が動き回り、赤子の鳴き声が響きわたる。

  

 屋敷の外から田中誠司がゆったりゆったり、門をくぐり、

外の庭では川村さんが演奏し、座敷で安藤さんが演奏し、

ガラス越しに音を響き合わせる。

 

 冷たく引き締まった空気の中に、乾燥した音が響き、

生々しくも霊性に満ちた田中さんの身体が世界を映す。

 

 なんという「生」の時間。

 

 「いま」は、「過去」と「未来」の紙一重のところにある。

 

「いま」に立つ私は、

「過去」を受け入れきれてない自分と向き合っている。

「過去を受け入れきれてない自分」という「いま」。

 

 あのゆうどの空間で、遠くに見えたもの。

 それは、大切な人たちの笑顔。

 その「未来」に向かって、勇気を振り絞って、

 一歩、一歩、一歩、一歩のかなたに。

 

 呼吸。

 

 

<パフォーマンスに関しての詳細はこちら↓>

2015年2月8日(日)

Imaginary Cafe ~想像的民族料理店~ Presents

音舞の即興会「寂氷の花」

開場 14時半 開演 15時

第一部 田中誠司 公開舞踏ワークショップ (WS参加者は主催者が事前に決めています)
15時~16時半頃

お茶休憩

第二部 音と舞踏の即興公演
17時半~18時20分頃

田中誠司 舞踏
川村祐介 トランペット
安藤裕子 ソプラノサックス&ディジュリドゥ

お代:3000円 お茶菓子付き

場所:古民家ギャラリー「ゆうど」 (東京都新宿区下落合3-20-21)

予約:tanakay@gmail.com(田中庸平)

企画:田中庸平(Imaginary Cafe)

田中 誠司
1977年奈良市生まれ。大野一雄舞踏研究所にて、大野慶人に師事。以来、日本、ドイツの劇場、イベントなどで、ソロ、デュエットともに精力的に公演を続ける。2011年2月、郷里の奈良に「田中誠司舞踏スタジオ」を開設。

川村祐介
東京生まれ。美術大学を中退後、即興演奏を中心とした活動を始める。陸上競技者であった経験などから身体への興味が強く、やがてそれは土地固有の身体性やそれに伴う文化への意識と繋がり、活動の核ともなる。自身のトリオ「參重奏」、齋藤秀行氏との「voyager ensemble」を主宰。

安藤裕子
MUSQIS(ムスキス),Mooons(ムオーンズ)H onkitrio(ホンキトリオ)他、数多くのユニットや即興で演奏活動するサックス、クラリネットディジュリドゥ奏者。
近日、自主音楽レーベル 「MOOON RECORDS」立ち上げる予定。

 

久司道夫氏、ご逝去

日本から来たシュバイツァー、久司道夫 先生

久司道夫先生、昨年暮れに亡くなられたのですね。

心よりご冥福をお祈りいたします。


若いころに影響を受けました。


久司道夫の公式ホームページ

 

きっかけは幼馴染の癌でした。お互いに18歳でした。


余命三か月と宣告され、180センチある身長で35キロくらいの

体重になっていました。座るとお尻の肉がないので痛いと、

いつも円座のようなものを持ち歩いていたような記憶があります。

 

その後、彼は食事療法で癌を奇跡的に克服し、

今は京都で鍼灸院を営んでいます。

 

その幼馴染からは、なぜ自分が病気になったのか、
そして、抗がん剤はこっそり捨てていたこと、
その代わりに玄米正食とはり治療を実行していたこと
などを教えてもらいました。その後、私は大学進学のために上京。
食べることの責任が自分にかかってきました。 その頃出会った雑誌にデイズ・ジャパンというのがありました。
そこで自然食の特集として、マクロビオティックという言葉を
目にしました。
そして、「日本から来たシュバイツァー」と
呼ばれる日本人の久司道夫氏の記事があったのです。
その記事を読み図々しく、アメリカの研究所にお手紙を書きました。お弟子さんが丁寧なお返事をくださって、
一言だけ、久司先生の力強い直筆で、
「羽ばたいてください」とお言葉を頂きました。
羽根、むしり過ぎて羽ばたけてないですが、
「食べているものが、自分の身体を作っていること」を
教えていただきました。 結婚して、子どもを二人授かり、アレルギーが発症しました。最初は湿疹でその後、ぜんそくでした。特に長男が重かったです。娘は最近も少しアトピー気味。 日々の食事の中で気を付けることをある程度学びました。幸い、重度の発作などがなかったので、食べながら様子を見るという方法をとりました。 私自身も子どもの幼稚園でのママ友たちとのお付き合いのストレスからかアトピーを発症したことがあります。ストレスが一番よくないんですね、人間にとって(#^.^#) じゃあ、ストレスってなんだろうということですが、心にも身体にも負荷が大きい状態という風に、私は捉えています。 そのバランスを取りながら、今は、お肉もお魚も適度には頂きます。いい加減ではありますが、
日々の生活の中で自分の食べるものに責任を持つ
ということを心がけてはおります。
また、著書を少しひも解いてみようと思います。 
マクロビオティック健康法―正食のすすめ

マクロビオティック健康法―正食のすすめ

 

 

日本バレエ史の交差点~そして、世界へ

★点と点がつながる<場>★

 

 全てはある一言から始まりました。

「小川亜矢子先生がN.Yで指導を受けた先生が

とても良い先生だったようね」と。

 10年来、ワガノワ・メソッドとバレエにおける芸術性について

学ばせて頂いている内藤瑠美先生の言葉です。

 「小川先生もね、ここにいらしたことあるのよ。でもね、方角があまり良くないって、いらっしゃらなくなったの」と。

  ここのところ、内藤先生は、1月7日に天に召された青山ダンシングスクエア主催の小川亜矢子先生(写真)のことをレッスン中にお話しされます。

 

f:id:aikosoleil:20150121083346g:plain

 

 内藤先生も70代半ばで、日本のバレエ界を同じ時期に生きていらした方が

お亡くなりになったことで、ご自身が小川先生について知っていることを少しでも

多くの人に伝えたいというお気持ちが強くなったのかもしれません。 

  

 この「小川先生がN.Yで指導を受けた先生」という言葉で、私の中のある点と点が繋がりたい衝動が起こりました。そして、小川先生のレッスンも受講したこともない身分で、どうしても書きたくなりました。この正直な気持ちを天にいらした小川先生も許してくださるのではないかと勝手に想像して。

 

 この東京の都心から少し離れたスタジオで、日本のバレエ史と世界のバレエ史がつながる瞬間を感じたのです。

 それは、2015年1月という瞬間と19世紀末の帝政ロシアまでの壮大なタイムトリップになるだろうと、ここで予測しておきます。

 その時間の流れの中で、小川亜矢子先生という方と日本のバレエ史、そして、世界のバレエ史、大きく言うとダンス史にもつながるということをお知らせしたいと思います。

 

【点1】2015年1月 @ときわ台の内藤バレエスタジオで

 「小川先生がN.Yで指導を受けた先生がとても良かった」という言葉から。

 小川先生ご自身のお話からは、このN.Yの先生は、英国出身のアントニー・チューダーという振付家でバレエ教師の名前が認められます(『日本バレエ史』新書館刊)。

 

日本バレエ史―スターが語る私の歩んだ道

日本バレエ史―スターが語る私の歩んだ道

 

  

【点2】1960年 小川亜矢子先生、N.Yのメトロポリタン・オペラ・バレエ団入団

 小川先生が指導を受けたアントニ・チューダー。彼は、英国人でマリー・ランベール(ニジンスキーの有名な『春の祭典』の振付アシスタントだった)の元でバレエを始め、振付の才能を早くから発揮していた。また、イタリア派のチェケッティ・メソッドの指導者マーガレット・クラスクにも師事し、のちに彼女をN.Yに呼び寄せたのもチューダーでした。チェケッティ・メソッドに関しては、後半にたっぷりとお話しします。

 

 チューダーは、1930年代の英国バレエ確立期(ニネット・ド・ヴァロワやフレデリック・アシュトンを中心に活動を活発化する時期)から離れ、N.Yに渡り設立当初のABTやNYCBなどで作品を提供。1951 年からはメトロポリタン・オペラ・バレエ団のディレクターとバレエ学校の校長、同年ジュリアード音楽院の舞踊部門の設立にも尽力し、人材育成、指導の方にも力を注いでいた。

 チューダーがマーガレット・クラスクから受け継いだチェケッティ・メソッドは、英国のバレエの基礎を作り、同時にアメリカ合衆国クラシック・バレエ界、モダン・ダンス界の著名なダンサーにも浸透し、後にドイツを代表する現代ダンスの振付家となるピナ・バウシュにも多大な影響を与えました。

 

 ピナ・バウシュもまた1960年からN.Yに留学。ジュリアード音楽院でチューダーに学び、彼をとても尊敬していました。ドイツでカンパニーを持ってからもクラシック・バレエのクラスはダンサーには毎朝必修にしています。

 彼女が、カンパニーに招いたバレエ教師が、アルフレッド・コルヴィノ。コルヴィノもやはり、マーガレット・クラスク、チューダーの弟子で、チェケッティ・メソッドを大切にしていた人物。コルヴィノ(写真)も、のちにチューダーの後を継いで、ジュリアード音楽院で40年以上も指導にあたりました。

f:id:aikosoleil:20150121083203j:plain

 

 マーガレット・クラスクは英国では、フレデリック・アシュトン、マーゴット・フォンティン、アントン・ドーリンなどを指導し、イタリア人の名バレエ教師エンリコ・チェケッティの弟子〈1918年から23年)としてチェケッティ・メソッドの最高権威と呼ばれている。1920年にディアギレフのバレエ・リュスに参加。

 1939年から1946年までインドで導師メハー・ババに入門。彼女にアメリカでバレエを指導するように促したのはババでした。一度ロンドンに戻り、短期間指導した後にチャンスが訪れた。ABTのロンドン公演で、当時ディレクターだったアントニー・チューダーと出会う。

 1946年、チューダーに呼ばれ渡米。N.Yを拠点にダンサー育成に尽力する。ABT、メトロポリタン・オペラ・バレエ学校で指導。クラスクの代表的な生徒に、キューバ出身のアリシアアロンソがいました。

 マンハッタンに個人のスタジオも運営し、そこにはポール・テイラー、グレン・テトリー、ジャン・セブロンなど、モダンダンス界にも影響を与えたのです。

 こちらが現役の頃のクラスク。アロンソが彼女の生徒と聞くとうなずけます。

f:id:aikosoleil:20150124143942j:plain

 

  

f:id:aikosoleil:20150123121256j:plain

 

  この写真は、ちょうど小川先生がメトロポリタン・オペラ・バレエ団に入団したころの1961年のレッスン風景です。チューダーは1908年生まれなので、御年53歳でこのジャンプ力!!この写真を見るだけでも、どこにも力が入っていなくて、ふわっと浮いている様子がわかると思います。

 チューダーは、「立つことはどういうことだ」と1954年に来日した時に、彼の指導を受けたスターダンサーズ・バレエ団の太刀川瑠璃子先生は聞かれてショックだったとお話になってます(『日本バレエ史』新書館刊)。

 これはチューダーなのか、彼のバレエ・メソッドの背景にあるチェケッティ・メソッドなのかは、確認できないのですが、このシンプルに「立つ」ということが、ピナ・バウシュのヴッパタール舞踊団にも受け継がれているのです。

 「とにかくピナはクラシック・バレエの基本を大切にしていた。毎朝、カンパニーでは、クラシックのレッスンを受けるの。ピナの先生だった人が、アルフレッド・コルヴィノという南米出身の先生だった」(元ヴッパタール舞踊団 市田京美談)

 

【点3】1952年~54年@ロンドン、英国ロイヤルバレエスクール

 小川亜矢子先生は、1952年に日本人として初めて英国ロイヤルスクールに留学。マーゴット・フォンティンとの出会いや英国バレエの確立期と遭遇する。

 英国留学後、1954年からはご主人となるアイヴァン・モリス氏の両親の住むパリに移り、マダム・ロザンヌのスタジオで、モーリス・ベジャール、イヴェット・ショヴィレ、ジャン・バビレなど戦後フランスを代表する振付家、舞踊家たちやと交流。

 これまたバレエ史に名を残すすごい面々の名前がずらりです。

 1959年、日本の小牧バレエ団でのマーゴット・フォンティン、マイケル・ソムスと『眠れる森の美女』でリラの精を踊り、共演する。

 英国からパリ、東京そしてN.Yという小川亜矢子先生の世界のバレエ界との交流は、まさに戦後バレエ史の隆盛期の中にあったのです。日本も1960年には、東京バレエ学校が開校し、ソ連からメッセレル女子、ワルラーモフ氏をボリショイ・バレエ団から招き、数多くの日本バレエ界を支える人材が両氏の指導を受ける。日本バレエ界の充実期ともいえる時期と考えられる。

  

【点4】再び2015年1月 ピナ・バウシュ→アルフレッド・コルヴィノ→アントニー・チューダー→小川亜矢子といいう流れが私の中で、一つにつながる。そして、もっと壮大な流れが生まれる。それは、バレエ史へのつながり。

小川亜矢子→チューダー→マーガレット・クラスク→イタリア人バレエ教師エンリコ・チェケッティまでの時間の流れを感じる。

 

 第二次大戦後の世界のバレエ界が活発化する雰囲気の中で、小川亜矢子先生が習得されたバレエ・メソッドは、アントニー・チューダーから受け継いだチェケッティ・メソッド。これは、私が亜矢子先生に直接確認したことではありませんが、亜矢子先生に関わりのある方からお話を伺いました。

 私自身の研究の中で、1960年代のN.Yでのバレエの基礎が何であったかを照合させると、チェケッティ・メソッドであることは間違いないと考えられるのです。

  

 以前から、チェケッティ・メソッドについてはきちんとまとめたいと思っていました。友人のピアニストさんの紹介で、ロンドンでチェケッティ・メソッドの指導資格を取得された方(こちらで取得http://www.istd.org/home/)のレッスンを一度だけ受講したことがあります。

 その時に、一番身体が受け止めたことは、ポール・ド・ブラの重要性でした。バーレッスンでのポール・ド・ブラはほとんど動かしません。おそらく一番最初のグレードの内容で、足の動きも最小限だったと記憶しています。とても集中力と身体のコントロールを要求されます。当たり前のことのようで、なかなか普段流している部分でもありました。

 センター・レッスンの初めは、必ずポール・ド・ブラ(腕の運び方)だそうです。ここでも、頭の角度と腕のコーディネーションが求められます。シンプルだけど、とても難しいのです。

  

 では、ここからは小川先生も大切にされていたチェケッティ・メソッドの創始者、マエストロ・エンリコ・チェケッティについてお伝えしまして、小川亜矢子先生の御霊に捧げたいと思います。

 

 日本で、バレエのメソッドとして主流は、ロシアのワガノワ・メソッドでしょう。

チェケッティ・メソッド、と言ってすぐにわかる人はバレエ教師の中でもそれほど多くないと思います。

 最近は、パリ・オペラ座の流れのWSも増え、英国のRADやバランシンのスタイルの基礎でバレエを教えているところも多くなっていると思います。

 おそらく、今主流のバレエ・メソッドのほとんどが、チェケッティ・メソッドを経由して、現在に受け継がれていると言っても良いと思います。極端な話、ワガノワ・メソッドもチェケッティがなければ成立しなかったのです。  

 

 ★バレエ界のゴッド・ファザー、エンリコ・チェケッティ★

 ちょっと大げさかもしれませんが、チャイコフスキーの名作バレエだって、チェケッティがいなかったら、もしかして生まれなかったかも知れないのです。

これは『眠れる森の美女』でブルーバードを踊るチェケッティです。

f:id:aikosoleil:20150121221026j:plain 

 

 そして、私が最も好きなチェケッティの写真はこれです! アンナ・パヴロヴァの個人レッスンをしているところでしょう。パヴロヴァは、どちらかというとフランス派のエレガントな動きが得意で、技巧的な面が弱かったことを自分で理解し、弱点を克服するためにマエストロ・チェケッティの指導を仰いだのです。

 

f:id:aikosoleil:20150121221841j:plain

そして、この二人の関係をバレエ化した素敵な映像がこちら。

 

  

 

 チェケッティが育て上げた名バレリーナ、名ダンサーは数知れず。20世紀初頭のヨーロッパを華やかに飾ったロシア人バレリーナ、ダンサーのほとんどが彼の指導を受けています。

 

 英国にはチェケッティのメソッドの基礎を指導するシステムができました。先ほど、前半のお話にもでた、チューダーの先生であったマーガレット・クラスクというチェケッティの弟子が、1924年にチェケッティが引退してイタリアに帰国した後、ロンドンでこのバレエの基礎を指導し、同時期にチェケッティ・ソサエティという組織も設立されました〈1922年設立。1924年に帝室舞踊教師教会として統合)。

 Cecchetti Heritage

 チェケッティ・メソッドの動きを少しご覧いただきましょう。とても長いアダージオでダンサーも大変です。体のコントロールとコーディネーションが大切なことが

良くわかります。

 


Ballet Evolved - Enrico Cecchetti 1850-1928 - YouTube

 

 このような身体訓練のシステムを築き、歴史的にも著名な舞踊家たちを育て上げた、バレエ界のゴッド・ファザーとも言えるエンリコ・チェケッティとはどんな人物だったのでしょうか。

 たぶん、チェケッティが育てた人物たちの方が有名だと思います。有名なところでは、帝政ロシア時代にはアンナ・パヴロヴァ、タマラ・カルサーヴィナ、ミハイル・フォーキン、オリガ・ブレオブラジェンスカヤ、アグリッピナ・ワガノワ、アレクサンドル・ゴルスキー、ヴァスラフ・ニジンスキー、アドルフ・ボルム、ミハイル・もモードキン。英国では、マリー・ランベール、ニネット・ド・ヴァロワ、アリシア・マルコワ、アントン・ドーリンほか上げきれません。

 ソ連時代に確立したロシア派といえば、ワガノワと言われるメソッドも、チェケッティのイタリア派の良い部分とフランス派のエレガンスを求める流儀とロシア独特の民族性と劇的要素を融合させて、チェケッティの指導を受けたアグリッピナ・ワガノワが整えたシステムなのです。

 英国では、バレエの基礎としてチェケッティのメソッドが定着したことは先ほどお話ししました。1923年からはパリでもオリガ・ブレオブラジェンスカヤがスタジオを開き定住することとなりました。

 ミハイル・モードキンはのちのABT創始者となり、アドルフ・ボルムもアメリカで活躍した。こう見てみるとチェケッティの門下生によって、世界のバレエが発展していったといっても良いですね。

 世界のマエストロになるエンリコ・チェケッティは、両親がダンサーで、ローマの劇場の衣裳部屋で1950年6月21日に生まれました。

 偉大なバレエ教師であり、マイムの名手でした。フィレンツェの舞踊アカデミーで、イタリアの名バレエ教師カルロ・ブラジスの弟子ジャンニ・レプリに師事し、1870年にミラノ・スカラ座でデビュー、1885年にはプリンシパルに昇格。スカラ座で活躍しながらも、ヨーロッパ各地に招かれ、1887年にロシアのマリンスキー劇場でデビューを果たします。その輝かしい技術でロシア人を魅了し、帝室劇場のプリンシパル・ダンサー兼第2バレエマスターに就任。

 1892年からは帝室バレエ学校でも指導し、そこで育った生徒たちが、先ほどご紹介した人物たち。1902年に一時ワルシャワで教え、1906年にはサンクトペテルブルクに自分のバレエ学校を設立。1909年からはディアギレフのバレエ団で、バレエ・マスターとキャラクターダンサーとして入り1918年までディアギレフを支えたのです。

 1918年にはロンドンに妻と一緒にバレエ学校を設立。また、1925年から28年の亡くなる年まで、故郷であるイタリアのミラノ・スカラ座バレエ学校の運営にも携わっりました。

 現役最後の役は、1926年にミラノで演じた老いた見世物師だったそうで、おそらくフォーキンの『ペトルーシュカ』だったと想像します。

 まだまだ、言葉足らずではありますが、一生をバレエ教育に捧げたマエストロの物語です。

f:id:aikosoleil:20150124163628j:plain

 帝政ロシア時代は、マリウス・プティパやレフ・イワーノフといった振付家を支え、おそらくは、自ら演じた青い鳥の踊りなどは、チェケッティ自身が振り付けたのではないかと考えられます(これはあくまでも私の想像です)。

 というのは、マリウス・プティパはあまり男性の踊りの振り付けが得意ではなかったという記録があるからです。

 エンリコ・チェケッティ。バレエ史上、もっとも大きな蝋燭の燭台と言っても良い存在の人物。燭台には光が当たらないのは、燭台の運命かもしれない。

 でも、たまには美しい燭台に光が当たってもよいのではないか、と思いここにお知らせすることを覚悟したわけです。

 

 ここにつづった言葉たちは、歴史の中で名前が残らなかったかもしれない舞踊教師たち、そして、今なお現役でダンサーたちを支えている舞踊教師たちへのオマージュとして捧げたいと思います。

 

 小川亜矢子先生のご冥福と天界でのご活躍を心よりお祈りいたします。

 

f:id:aikosoleil:20150124180347j:plain

なんてったって『白鳥の湖』が見たい!

2015年の開幕は、ミハイロフスキー劇場バレエ団来日公演『白鳥の湖』!

 昨年11月にボリショイ・バレエ団(ロシア)の『白鳥の湖』のチケットをとっておきながら、まさかの体調不良で見に行けなくなってしまいました。見に行けないと人間て思いが募るもので、その晩、具合悪いくせにPCに向かい、一番早く見られる生オーケストラ(ロシアの!ここ大事!)の『白鳥の湖』の公演を探す。

 

 いきなり話が寄り道になりますが、ボリショイの『白鳥の湖』はソ連時代に長年芸術監督を務めたユーリー・グリゴローヴィチという人が振付けたヴァージョンで、私はこの演出、振付の『白鳥の湖』を子どもの頃に繰り返し繰り返し、VHSが傷むまで見ていました。

 せっかくなので、ご案内します。お時間ある方はごゆっくりご覧くださいね。全幕です☆彡

 特徴は、第一幕で王子の踊りが多いことと、第三幕に登場する王子の婚約者たちが、各国を代表する姫君という設定となっていること。通常の演出による民族舞踊のシーンとは違って、女性はトーシューズを履いて踊る振付になっているところが特徴的です。個人的にはロシアの踊り(ルースカヤ)がとてもお気に入り☆彡

  


Tchaikovsky The Swan Lake , Bolshoi Ballet - YouTube

 

 私がボリショイの『白鳥の湖』をよく見ていた頃(1970年代後半)のオデット・オディールは、ナタリア・ベスメルトノワで王子がアレクサンドル・ボガティリョフ。ベスメルトノワは、芸術監督グリゴローヴィチの奥様。ボガティリョフは、かの有名なプリセツカヤが大絶賛のダンスール・ノーブル(貴族的な役を演じることができる男性舞踊手)でした。

 

 さてさて、話をもとに戻しまして、新春の『白鳥の湖』のバレエ公演ありました!しかも生オケ!

 2015年1月にミハイロフスキー劇場バレエ団(旧レーニングラード国立バレエ団)の公演が。まずは、配役確認で目に入ってきた名前が、王子ジークフリートにレオニード・サラファーノフ。彼は、元マリンスキー劇場の有望株だったはず。2011年にこちらのバレエ団に移籍して、今やこのバレエ団の要となる存在になっているようです。

 肝心のオデット・オディールは?サラファーノフが王子を踊る日の配役にはアンジェリーナ・ヴォロンツォーワという名前が。

「ヴォロンツォーワってどこかで聞いたことがあるような、ないような?」と思い、いろいろ調べたり、ロシア・バレエの事情に詳しい友人に聞いてみたりしたところ、彼女のボーイフレンドが前芸術監督セルゲイ・フィーリン事件に関与していたということでした。それで、なんとなく記憶に残っていたのかもしれません。詳しい事情は知りませんが、彼女もボリショイからこのバレエ団に移籍したようです。

 

 しか~し!ダンサーを噂やスキャンダルだけで評価してはいけません。ダンサーは、まず踊りを見ないと、と思いすぐにチケットをポチりました(#^.^#)

 それから、彼女がどんなバレリーナなのかを確認するために動画サイトのネットサーフィンに出かけるのであります!(具合悪いはずw)

 見つけましたよ!ボリショイ時代のものが。師匠のニコライ・ツィスカリーゼと踊っている『くるみ割り人形』のグラン・パ・ド・ドゥがこちら。若干ぽっちゃりかな(^_^;)


THE NUTCRACKER - PAS-DE-DEUX-ANGELINA VORONTSOVA & NIKOLAI TSISKARIDZE - YouTube

 

 それから、次の映像は結構お気に入り。あまり日本では上演されないロシアを代表する作品の一つ『パリの炎』第一幕第二場の宮廷バレエのシーンです。

 お相手は、今やボリショイの若手ナンバーワンと言っても良いデニス・ロヂキン。彼もまたツィスカリーゼの生徒です。

 


BALLET THE FLAMES OF PARIS - ANGELINA VORONTSOVA & DENIS RODKIN - YouTube

 

 この二つの作品を見る限りでは、ヴォロンツォーワのテクニックは安定しているようですし、踊りも丁寧だし、私の感覚としては見てみたいなと思いました。ただ、彼女が<オデット・オディール>という『白鳥の湖』の主役と考えた時に、そのプリマとしての風格やエレガンスをどこまで舞台で出せるか、ということは未知数でした。

 

 古典作品を踊る場合、あくまでも私の考えですが『ラ・シルフィード』、『ジゼル』、『白鳥の湖』の主役を演じることができるというのは、ただ踊りが上手とか表現力があるということ以外のものが要求されると思うのです。

 つまり、これらの作品を演じ切る、演じるというよりもその役を生きることができるバレリーナというのは、別格な存在なのです。

 だれでも踊っていい作品というものではない、と考えています。その作品の格というものがあって、かつてのボリショイ(最初はマリンスキーで踊っていました)のスターバレリーナ、ガリーナ・ウラーノワは、ある時期からオディールやオーロラ、ライモンダなどの役を踊らずに、ジゼルやオデットのような「白いバレエ」や表現力の奥深さを求められる役柄に絞って、踊ったと言われています。

 こちらがウラーノワの『白鳥の湖』。1953年にキーロフ・バレエ団(現マリンスキー・バレエ団)で踊ったもの。

  


Swan Lake The Kirov Ballet 1953 - YouTube

 

 時代によって、バレエや芸術に求められる美しさや表現の仕方が違うと思います。どんな分野でも、身体能力の限界に挑戦するような高度な技術や科学技術が時代と共に発展してゆきます。私がバレエを学んでいた頃に慣れ親しんだバレリーナたちのキラキラとした美しさの記憶は、音楽性の豊かさ、作品の理解の深さ、そして、何よりも役そのものとして舞台に登場していることでした。 

 

 前置きがかなり長くなりました。いよいよミハイロフスキー劇場バレエ団の『白鳥の湖』の公演についてお話します。

 こちらがサンクト・ペテルブルクのミハイロフスキー劇場の外観☆彡

 

f:id:aikosoleil:20150116230411j:plain

 

 鑑賞日の前日に、キャスト変更を知る。楽しみにしていたヴォロンツォーワが劇場の都合で来日できなくなり、急遽、このバレエ団のプリンシパルのイリーナ・ぺレンが踊ることに。ちょっと、気持ちは落ちたけど、でもバレエは主役だけじゃない!と思い見てきました。

 

 まず、ミハイロフスキー劇場バレエ団全体としての印象。結構、近い距離で舞台を見られたので、舞台上でのダンサーたちの様子がよく見えました。

 団員全体の雰囲気が良く、温かい感じが伝わってきました。家庭教師、ロットバルト、民族舞踊のダンサーたちなどをはじめ個性的なダンサーたちが、脇をしっかりと固めつつ、存在感もばっちり。その中で主役が踊りやすい雰囲気が漂っていました。

 群舞は、身体条件もそれぞれ違う感じで(たとえば、コールドを揃えるために背の高さで入団資格を設定するバレエ団もあるようです)、完璧な統一感があるという印象ではないのだけど、私はなぜかそこがとても気に入りました。このバレエ団の個性として。そして、これから伸びてゆく可能性も感じました。

 

 『白鳥の湖』で最初に登場する主役は王子。サラファーノフは、若干足のラインが少し変わったかな?とは思いましたが、安定感のある跳躍、回転、そして、何よりも一つ一つの身のこなしが美しかった。

 まだ遊び盛りのちょっとやんちゃな王子として登場しつつ、「高貴な血」が流れる男性としてのエレガンスもありました。そして、オデットのペレンに対しては、包み込むように踊り、オディールのペレンには翻弄され、オディールに騙されて母の元に駆け寄り「僕ちゃんどうしよう」とお子ちゃまな部分も垣間見せ、「王子」の中にあるさまざまな側面を見事に表現していたんだな、とこうやって文章につづるとよくわかってきます。

 

 今回の二人の「愛」は、見事な勝利でした!

 

 不覚にも(笑)、第四幕の最後の断末魔の叫びとともに、オデットが王子をかばい、王子がロットバルトの羽根をもぎ取り、ロットバルトを退治するシーンで押し寄せる音楽の波に感情を掻き立てられて感涙。このバレエ団の演出では、最後はハッピーエンドでした。

 

 少し細かい話になりますが、ここのバレエ団の演出、振付は現バレエ・マスターのミハイル・メッセレル。

 『白鳥の湖』の演出・振付のお話をすると大変なことになりますが、私たちが今全世界で見ることができる演出・振付の大元になっているのは、1895年にフランス人のマリウス・プティパとその輔佐的なポジションにいたレフ・イワーノフというロシア人の手によるもので、サンクト・ペテルスブルクのマリンスキー劇場で初演されました。

  

 ちなみに<幻の初演版>というのがあります。『白鳥の湖』は、チャイコフスキーの三大バレエの中で、彼が最初に手掛けたバレエでした。それは、モスクワのボリショイ劇場から依頼され、1877年に初演されたのでした。その当時の振付家は、ウェンツェル・レイジンゲルというプラハ出身の人で、1873年から1878年までモスクワのボリショイ・劇場で働いていました。

 

 この最初演版は、一般的には「成功しなかった」との評価なのですが、研究によると賛否両論だったようです。レイジンゲルの振付に関しては不評であったものの、チャイコフスキーという作曲家が手掛けたバレエは注目を集めていたということがわかってきています。

 その後、振付が他の人によって改訂され、1883年まではモスクワのボリショイ劇場でも41回も上演されていたとのことで、チャイコフスキーのバレエとしては「成功を収めた」との考え方もあります。

 また、内容的にはオペラとの関連性も指摘されていて、まだまだ知られていないことがたくさんあります。この辺については、上演史も含めてかなり複雑なのでご興味ある方はこちらの本を読んでみてください。

 

Amazon.co.jp: チャイコフスキー三大バレエ―初演から現在に至る上演の変遷: 渡辺 真弓: 本

 

 現在モスクワのボリショイ劇場で踏襲されている『白鳥の湖』の演出・振付は、1901年に初演されたものと言えるでしょう。この演出・振付は、マリウス・プティパの弟子(プティパは結構彼に批判的)アレクサンドル・ゴールスキーという人物が手がけました。このヴァージョンが、今回のミハイロフスキー劇場バレエ団で上演された『白鳥の湖』のもとになっているようです。

 

 基本的に、チャイコフスキーのバレエや帝政ロシア時代に作られた作品(もちろん、それ以前の19世紀の作品も)は、「古典芸能」と考えて良いと思います。いわゆる、日本の歌舞伎や能に近いものと考えていただいて良いと思います。

 「古典」には「型」があって、「様式美」があり、「制限された美」の世界です。その制限の中で、時代の流れや振付家の個性によって、同じ作品に違う色合いや新しい味わいが生まれるのです。

 

 今回の演出・振付で一番目に留まったのは、「パ・ド・トロワ」でした。私が子どもの頃に発表会で先輩たちが踊っていたマリンスキーの流れのものとは、全然違う振付でした。衣装の色もミハイロフスキーでは白。マリンスキーは、白と淡い緑。ボリショイは黄色い衣装です。

 

 それでは、マリンスキー版のパ・ド・トロワとボリショイのものを見比べていただきましょう。

 こちらは、マリンスキー版です。キエフ・バレエ団の振付も微妙な違いはありますが、ほぼこちらの振付と同じ。


Swan Lake - Pas de trois - YouTube

 

 

 ボリショイのパ・ド・トロワを見ていたら、先ほども書きましたが、こちらが今回見たミハイロフスキー版の振付に近いと思いました(ただし、男性は王子じゃなくて、友人の一人の設定)。

 


Swan Lake pas de trois 1 act Bolshoi Ballet 2011 - YouTube

 

 古典作品を見る醍醐味は、いろんなバレエ団の演出・振付を楽しめることではないでしょうか。100年以上前のロシアで誕生したバレエが、時代やお国柄によって、変化し発展している世界にとても魅力を感じます。だから、「バレエ史」なんて研究してるんですけどね(笑)

 

 見つけちゃいました!ミハイロフスキーの『白鳥の湖』全幕です。


Swan Lake - Borchenko & Lebedev - YouTube

 

 今年は、さまざまなバレエ団の『白鳥の湖』が続きますよ!

 5月には、これまたロシアのダンチェンコ劇場のブルメイステル版、それから帝政ロシアの伝統を踏襲するマリンスキー劇場バレエ団が11月から12月にかけて。それから、イギリスのバーミンガム・ロイヤル・バレエ団も芸術監督ディヴィド・ビントレーの演出・振付を4月、5月に見せてくれるようです。お好みの演出・振付に出会えるといいですね!