Salle d’Aikosoleil

バレエ史についての備忘録 日々の食について

日本バレエ史の交差点~そして、世界へ

★点と点がつながる<場>★

 

 全てはある一言から始まりました。

「小川亜矢子先生がN.Yで指導を受けた先生が

とても良い先生だったようね」と。

 10年来、ワガノワ・メソッドとバレエにおける芸術性について

学ばせて頂いている内藤瑠美先生の言葉です。

 「小川先生もね、ここにいらしたことあるのよ。でもね、方角があまり良くないって、いらっしゃらなくなったの」と。

  ここのところ、内藤先生は、1月7日に天に召された青山ダンシングスクエア主催の小川亜矢子先生(写真)のことをレッスン中にお話しされます。

 

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 内藤先生も70代半ばで、日本のバレエ界を同じ時期に生きていらした方が

お亡くなりになったことで、ご自身が小川先生について知っていることを少しでも

多くの人に伝えたいというお気持ちが強くなったのかもしれません。 

  

 この「小川先生がN.Yで指導を受けた先生」という言葉で、私の中のある点と点が繋がりたい衝動が起こりました。そして、小川先生のレッスンも受講したこともない身分で、どうしても書きたくなりました。この正直な気持ちを天にいらした小川先生も許してくださるのではないかと勝手に想像して。

 

 この東京の都心から少し離れたスタジオで、日本のバレエ史と世界のバレエ史がつながる瞬間を感じたのです。

 それは、2015年1月という瞬間と19世紀末の帝政ロシアまでの壮大なタイムトリップになるだろうと、ここで予測しておきます。

 その時間の流れの中で、小川亜矢子先生という方と日本のバレエ史、そして、世界のバレエ史、大きく言うとダンス史にもつながるということをお知らせしたいと思います。

 

【点1】2015年1月 @ときわ台の内藤バレエスタジオで

 「小川先生がN.Yで指導を受けた先生がとても良かった」という言葉から。

 小川先生ご自身のお話からは、このN.Yの先生は、英国出身のアントニー・チューダーという振付家でバレエ教師の名前が認められます(『日本バレエ史』新書館刊)。

 

日本バレエ史―スターが語る私の歩んだ道

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【点2】1960年 小川亜矢子先生、N.Yのメトロポリタン・オペラ・バレエ団入団

 小川先生が指導を受けたアントニ・チューダー。彼は、英国人でマリー・ランベール(ニジンスキーの有名な『春の祭典』の振付アシスタントだった)の元でバレエを始め、振付の才能を早くから発揮していた。また、イタリア派のチェケッティ・メソッドの指導者マーガレット・クラスクにも師事し、のちに彼女をN.Yに呼び寄せたのもチューダーでした。チェケッティ・メソッドに関しては、後半にたっぷりとお話しします。

 

 チューダーは、1930年代の英国バレエ確立期(ニネット・ド・ヴァロワやフレデリック・アシュトンを中心に活動を活発化する時期)から離れ、N.Yに渡り設立当初のABTやNYCBなどで作品を提供。1951 年からはメトロポリタン・オペラ・バレエ団のディレクターとバレエ学校の校長、同年ジュリアード音楽院の舞踊部門の設立にも尽力し、人材育成、指導の方にも力を注いでいた。

 チューダーがマーガレット・クラスクから受け継いだチェケッティ・メソッドは、英国のバレエの基礎を作り、同時にアメリカ合衆国クラシック・バレエ界、モダン・ダンス界の著名なダンサーにも浸透し、後にドイツを代表する現代ダンスの振付家となるピナ・バウシュにも多大な影響を与えました。

 

 ピナ・バウシュもまた1960年からN.Yに留学。ジュリアード音楽院でチューダーに学び、彼をとても尊敬していました。ドイツでカンパニーを持ってからもクラシック・バレエのクラスはダンサーには毎朝必修にしています。

 彼女が、カンパニーに招いたバレエ教師が、アルフレッド・コルヴィノ。コルヴィノもやはり、マーガレット・クラスク、チューダーの弟子で、チェケッティ・メソッドを大切にしていた人物。コルヴィノ(写真)も、のちにチューダーの後を継いで、ジュリアード音楽院で40年以上も指導にあたりました。

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 マーガレット・クラスクは英国では、フレデリック・アシュトン、マーゴット・フォンティン、アントン・ドーリンなどを指導し、イタリア人の名バレエ教師エンリコ・チェケッティの弟子〈1918年から23年)としてチェケッティ・メソッドの最高権威と呼ばれている。1920年にディアギレフのバレエ・リュスに参加。

 1939年から1946年までインドで導師メハー・ババに入門。彼女にアメリカでバレエを指導するように促したのはババでした。一度ロンドンに戻り、短期間指導した後にチャンスが訪れた。ABTのロンドン公演で、当時ディレクターだったアントニー・チューダーと出会う。

 1946年、チューダーに呼ばれ渡米。N.Yを拠点にダンサー育成に尽力する。ABT、メトロポリタン・オペラ・バレエ学校で指導。クラスクの代表的な生徒に、キューバ出身のアリシアアロンソがいました。

 マンハッタンに個人のスタジオも運営し、そこにはポール・テイラー、グレン・テトリー、ジャン・セブロンなど、モダンダンス界にも影響を与えたのです。

 こちらが現役の頃のクラスク。アロンソが彼女の生徒と聞くとうなずけます。

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  この写真は、ちょうど小川先生がメトロポリタン・オペラ・バレエ団に入団したころの1961年のレッスン風景です。チューダーは1908年生まれなので、御年53歳でこのジャンプ力!!この写真を見るだけでも、どこにも力が入っていなくて、ふわっと浮いている様子がわかると思います。

 チューダーは、「立つことはどういうことだ」と1954年に来日した時に、彼の指導を受けたスターダンサーズ・バレエ団の太刀川瑠璃子先生は聞かれてショックだったとお話になってます(『日本バレエ史』新書館刊)。

 これはチューダーなのか、彼のバレエ・メソッドの背景にあるチェケッティ・メソッドなのかは、確認できないのですが、このシンプルに「立つ」ということが、ピナ・バウシュのヴッパタール舞踊団にも受け継がれているのです。

 「とにかくピナはクラシック・バレエの基本を大切にしていた。毎朝、カンパニーでは、クラシックのレッスンを受けるの。ピナの先生だった人が、アルフレッド・コルヴィノという南米出身の先生だった」(元ヴッパタール舞踊団 市田京美談)

 

【点3】1952年~54年@ロンドン、英国ロイヤルバレエスクール

 小川亜矢子先生は、1952年に日本人として初めて英国ロイヤルスクールに留学。マーゴット・フォンティンとの出会いや英国バレエの確立期と遭遇する。

 英国留学後、1954年からはご主人となるアイヴァン・モリス氏の両親の住むパリに移り、マダム・ロザンヌのスタジオで、モーリス・ベジャール、イヴェット・ショヴィレ、ジャン・バビレなど戦後フランスを代表する振付家、舞踊家たちやと交流。

 これまたバレエ史に名を残すすごい面々の名前がずらりです。

 1959年、日本の小牧バレエ団でのマーゴット・フォンティン、マイケル・ソムスと『眠れる森の美女』でリラの精を踊り、共演する。

 英国からパリ、東京そしてN.Yという小川亜矢子先生の世界のバレエ界との交流は、まさに戦後バレエ史の隆盛期の中にあったのです。日本も1960年には、東京バレエ学校が開校し、ソ連からメッセレル女子、ワルラーモフ氏をボリショイ・バレエ団から招き、数多くの日本バレエ界を支える人材が両氏の指導を受ける。日本バレエ界の充実期ともいえる時期と考えられる。

  

【点4】再び2015年1月 ピナ・バウシュ→アルフレッド・コルヴィノ→アントニー・チューダー→小川亜矢子といいう流れが私の中で、一つにつながる。そして、もっと壮大な流れが生まれる。それは、バレエ史へのつながり。

小川亜矢子→チューダー→マーガレット・クラスク→イタリア人バレエ教師エンリコ・チェケッティまでの時間の流れを感じる。

 

 第二次大戦後の世界のバレエ界が活発化する雰囲気の中で、小川亜矢子先生が習得されたバレエ・メソッドは、アントニー・チューダーから受け継いだチェケッティ・メソッド。これは、私が亜矢子先生に直接確認したことではありませんが、亜矢子先生に関わりのある方からお話を伺いました。

 私自身の研究の中で、1960年代のN.Yでのバレエの基礎が何であったかを照合させると、チェケッティ・メソッドであることは間違いないと考えられるのです。

  

 以前から、チェケッティ・メソッドについてはきちんとまとめたいと思っていました。友人のピアニストさんの紹介で、ロンドンでチェケッティ・メソッドの指導資格を取得された方(こちらで取得http://www.istd.org/home/)のレッスンを一度だけ受講したことがあります。

 その時に、一番身体が受け止めたことは、ポール・ド・ブラの重要性でした。バーレッスンでのポール・ド・ブラはほとんど動かしません。おそらく一番最初のグレードの内容で、足の動きも最小限だったと記憶しています。とても集中力と身体のコントロールを要求されます。当たり前のことのようで、なかなか普段流している部分でもありました。

 センター・レッスンの初めは、必ずポール・ド・ブラ(腕の運び方)だそうです。ここでも、頭の角度と腕のコーディネーションが求められます。シンプルだけど、とても難しいのです。

  

 では、ここからは小川先生も大切にされていたチェケッティ・メソッドの創始者、マエストロ・エンリコ・チェケッティについてお伝えしまして、小川亜矢子先生の御霊に捧げたいと思います。

 

 日本で、バレエのメソッドとして主流は、ロシアのワガノワ・メソッドでしょう。

チェケッティ・メソッド、と言ってすぐにわかる人はバレエ教師の中でもそれほど多くないと思います。

 最近は、パリ・オペラ座の流れのWSも増え、英国のRADやバランシンのスタイルの基礎でバレエを教えているところも多くなっていると思います。

 おそらく、今主流のバレエ・メソッドのほとんどが、チェケッティ・メソッドを経由して、現在に受け継がれていると言っても良いと思います。極端な話、ワガノワ・メソッドもチェケッティがなければ成立しなかったのです。  

 

 ★バレエ界のゴッド・ファザー、エンリコ・チェケッティ★

 ちょっと大げさかもしれませんが、チャイコフスキーの名作バレエだって、チェケッティがいなかったら、もしかして生まれなかったかも知れないのです。

これは『眠れる森の美女』でブルーバードを踊るチェケッティです。

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 そして、私が最も好きなチェケッティの写真はこれです! アンナ・パヴロヴァの個人レッスンをしているところでしょう。パヴロヴァは、どちらかというとフランス派のエレガントな動きが得意で、技巧的な面が弱かったことを自分で理解し、弱点を克服するためにマエストロ・チェケッティの指導を仰いだのです。

 

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そして、この二人の関係をバレエ化した素敵な映像がこちら。

 

  

 

 チェケッティが育て上げた名バレリーナ、名ダンサーは数知れず。20世紀初頭のヨーロッパを華やかに飾ったロシア人バレリーナ、ダンサーのほとんどが彼の指導を受けています。

 

 英国にはチェケッティのメソッドの基礎を指導するシステムができました。先ほど、前半のお話にもでた、チューダーの先生であったマーガレット・クラスクというチェケッティの弟子が、1924年にチェケッティが引退してイタリアに帰国した後、ロンドンでこのバレエの基礎を指導し、同時期にチェケッティ・ソサエティという組織も設立されました〈1922年設立。1924年に帝室舞踊教師教会として統合)。

 Cecchetti Heritage

 チェケッティ・メソッドの動きを少しご覧いただきましょう。とても長いアダージオでダンサーも大変です。体のコントロールとコーディネーションが大切なことが

良くわかります。

 


Ballet Evolved - Enrico Cecchetti 1850-1928 - YouTube

 

 このような身体訓練のシステムを築き、歴史的にも著名な舞踊家たちを育て上げた、バレエ界のゴッド・ファザーとも言えるエンリコ・チェケッティとはどんな人物だったのでしょうか。

 たぶん、チェケッティが育てた人物たちの方が有名だと思います。有名なところでは、帝政ロシア時代にはアンナ・パヴロヴァ、タマラ・カルサーヴィナ、ミハイル・フォーキン、オリガ・ブレオブラジェンスカヤ、アグリッピナ・ワガノワ、アレクサンドル・ゴルスキー、ヴァスラフ・ニジンスキー、アドルフ・ボルム、ミハイル・もモードキン。英国では、マリー・ランベール、ニネット・ド・ヴァロワ、アリシア・マルコワ、アントン・ドーリンほか上げきれません。

 ソ連時代に確立したロシア派といえば、ワガノワと言われるメソッドも、チェケッティのイタリア派の良い部分とフランス派のエレガンスを求める流儀とロシア独特の民族性と劇的要素を融合させて、チェケッティの指導を受けたアグリッピナ・ワガノワが整えたシステムなのです。

 英国では、バレエの基礎としてチェケッティのメソッドが定着したことは先ほどお話ししました。1923年からはパリでもオリガ・ブレオブラジェンスカヤがスタジオを開き定住することとなりました。

 ミハイル・モードキンはのちのABT創始者となり、アドルフ・ボルムもアメリカで活躍した。こう見てみるとチェケッティの門下生によって、世界のバレエが発展していったといっても良いですね。

 世界のマエストロになるエンリコ・チェケッティは、両親がダンサーで、ローマの劇場の衣裳部屋で1950年6月21日に生まれました。

 偉大なバレエ教師であり、マイムの名手でした。フィレンツェの舞踊アカデミーで、イタリアの名バレエ教師カルロ・ブラジスの弟子ジャンニ・レプリに師事し、1870年にミラノ・スカラ座でデビュー、1885年にはプリンシパルに昇格。スカラ座で活躍しながらも、ヨーロッパ各地に招かれ、1887年にロシアのマリンスキー劇場でデビューを果たします。その輝かしい技術でロシア人を魅了し、帝室劇場のプリンシパル・ダンサー兼第2バレエマスターに就任。

 1892年からは帝室バレエ学校でも指導し、そこで育った生徒たちが、先ほどご紹介した人物たち。1902年に一時ワルシャワで教え、1906年にはサンクトペテルブルクに自分のバレエ学校を設立。1909年からはディアギレフのバレエ団で、バレエ・マスターとキャラクターダンサーとして入り1918年までディアギレフを支えたのです。

 1918年にはロンドンに妻と一緒にバレエ学校を設立。また、1925年から28年の亡くなる年まで、故郷であるイタリアのミラノ・スカラ座バレエ学校の運営にも携わっりました。

 現役最後の役は、1926年にミラノで演じた老いた見世物師だったそうで、おそらくフォーキンの『ペトルーシュカ』だったと想像します。

 まだまだ、言葉足らずではありますが、一生をバレエ教育に捧げたマエストロの物語です。

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 帝政ロシア時代は、マリウス・プティパやレフ・イワーノフといった振付家を支え、おそらくは、自ら演じた青い鳥の踊りなどは、チェケッティ自身が振り付けたのではないかと考えられます(これはあくまでも私の想像です)。

 というのは、マリウス・プティパはあまり男性の踊りの振り付けが得意ではなかったという記録があるからです。

 エンリコ・チェケッティ。バレエ史上、もっとも大きな蝋燭の燭台と言っても良い存在の人物。燭台には光が当たらないのは、燭台の運命かもしれない。

 でも、たまには美しい燭台に光が当たってもよいのではないか、と思いここにお知らせすることを覚悟したわけです。

 

 ここにつづった言葉たちは、歴史の中で名前が残らなかったかもしれない舞踊教師たち、そして、今なお現役でダンサーたちを支えている舞踊教師たちへのオマージュとして捧げたいと思います。

 

 小川亜矢子先生のご冥福と天界でのご活躍を心よりお祈りいたします。

 

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