元祖『ロミオとジュリエット』、ラヴロフスキー版☆彡マリンスキー劇場バレエ団公演
プロコフィエフの作曲とラヴロフスキーの振付が同時進行の妙!
これぞ元祖『ロミオとジュリエット』!マリンスキー劇場バレエ団によるラヴロフスキー版を見て、音楽と動きの見事な融合。そして、ストーリーが音楽と動きの融合によって語られる様をまざまざと見せつけられた気がしました。
シュツットガルト・バレエ団のジョン・クランコ振付の『ロミオとジュリエット』やロイヤル・バレエ団のケネス・マクミラン振付の『ロミオとジュリエット』も何度も見たけれど、やっぱり本家はレオニード・ラヴロフスキー版だな、と思いました。
クランコが振付する時に、このラヴロフスキー版のガリーナ・ウラーノワ主演の映像を何度も見て研究した、とカルラ・フラッチが話している映像を見た記憶があります。
手前味噌になりますが、こちらのDVDの解説を担当しております(;'∀')
この元祖『ロミオとジュリエット』の後に、新たな演出、振付で作品に息吹を与えたクランコとマクミランの勇気にも拍手を送りたい。
でもやっぱり、音楽と振付、台本(この台本にもプロコフィエフは関わっている)が同時進行という創作過程のエネルギーを考えると、このラヴロフスキー版の価値は、マリウス・プティパとチャイコフスキーの共同作業による『眠れる森の美女』に匹敵するものでしょう。
マリンスキー劇場(当時はキーロフ劇場)での初演までには紆余曲折がありましたが、1940年にガリーナ・ウラーノワがジュリエット、コンスタンティン・セルゲイエフがロミオを演じ、レーニングラードでの初演が実現したのです。
プロコフィエフは当初、ラストシーンをハッピーエンドで終わらせたいと考えていたようですが、最終的には原作通りの悲劇的結末となったようです。
(ラヴロフスキー版『ロミオとジュリエット』に関しては、またゆっくりと書きたいです。)
そして、今回の公演でのダンサーたちの好演に、「バレエは演劇で、音楽と動きによって登場人物の感情、そして情景までもが語られる」ということを改めて痛感した一日となりました。
眼を閉じて、どのシーンを思い出しても色あせず、ストーリーが語られるようなのです。出演者すべての心の一体感、アンサンブルの妙、主役だけでは成立しない舞台進行。スターダンサーが素晴らしいバレエ団はたくさんありますが、この隅々までダンサーが個性的に役柄を生きているって、なかなか出会えないことです。
マリンスキーの舞台は、何度も見ていますが、一番印象に残っている残念な舞台は、1992年(だと記憶)の『くるみ割り人形』でした。第二幕のお菓子の国の場面で、後ろの方に座っているダンサーたちが数名居眠りをしているとも思えるような、気の抜けた様子で座っていたのです。
ちょうどソ連邦が崩壊して、ダンサーたちが目標を見失い、チャンスのあるダンサーは、西側のバレエ団に移籍したりする状況がありました。
1991年にペルミ国立バレエ団の劇場総裁にインタビューした時にも、「ダンサーたちが目標を見失っている現状は否めない」と仰っていました。
その後、確か2000年くらいだったでしょうか。セルゲイ・ウィハレが1890年の初演版『眠れる森の美女』を復元し、日本でも上演された時でさえ、ある方から「ロシアのバレエダンサーが今後どのように生きていくか路頭に迷っている」というお話を伺ったことがあります。
その危機の時代を乗り越えて、今のマリンスキーを見てください。ボリショイ・バレエ団が、いろんなスキャンダルに巻き込まれる中、なんとなくロシア・バレエ界の未来展望が見えにくくなっていた時期です。
「歴史は力なり」でしょうか。ロシア最古のバレエ団のロシア・バレエの誇りを見せていただいたように感じます。
そして、きっとボリショイ劇場もひと時の歴史の流れの中で、また火の鳥のように甦る日も遠くないと期待したいと思います。
どんな困難な時代にも、ロシアと言う国は、バレエを支えて人材を育むシステムを守ってきているということです。ワガノワバレエ学校もボリショイバレエ学校もほかの地域のバレエ学校もなくならないでしょう。
もし、これらの学校が亡くなった時、きっとロシア・バレエの本当の危機の時代が
やってくるのだと思います。でも、きっと大丈夫。歴史と伝統はなくならない。
そして、先日マリンスキーの来日メンバーによる記者会見を見ましたら、彼らがしっかりとその伝統とバレエ芸術の本質を受け継いでいることが確認できました。
バレエ芸術は総合芸術で、一人のスターダンサーで保てるものではない、ということをダンサーたち自身がしっかりと認識し、それを率いている芸術監督の考え方も明確です。
そして、そして、そして、この日の公演に、なんとこのバレエ団出身の世界的スターバレリーナのナタリア・マカロワさんが、ご臨席されていたのです!同じ空間と作品をシェアできた興奮とあまりに素晴らしい作品に、久しぶりに感動しすぎてしましました。
マリンスキー劇場からマカロワさんの75歳のお誕生日プレゼントとのことです。なんと粋な計らいでしょう。
マカロワさんが、どんな思いでこの作品をご覧になられたかと想像すると、なんだか胸が熱くなりました。ソ連時代に国を捨て西側に渡り、ソ連からロシアへの転換期を生きたバレリーナの目に、この作品はどのように映ったのでしょうか。
2015年12月2日 東京文化会館にて
「近くて遠い」を感じる戸嶋靖昌の宇宙∞
書かずにはいれなくて☆彡
戸嶋靖昌の世界に触れるため
スペイン大使館へと赴いた。
ある方の紹介で、戸嶋靖昌という画家の存在を知る。
友人を誘い、この世界に誘えるというのも特別な存在。
誘い誘われて大使館へ。
雨だった。
雨が良かった。
絵を見終わって、雨降る世界に出て、
戸嶋の絵を見て、陽光が燦燦と注ぐ世界に出るよりも、
雨の薄暗い、冷たい空気の世界に出る方が、
ふさわしい気がした。
大使館に入ると、白い長い廊下がギャラリーへと導いてくれる。
まるで産道に吸い込まれるように。
具象と抽象の狭間にあるような絵画たち。
ところどころに人物のブロンズ。
戸嶋の遺品には、持ち主の体温がそのまま残る。
壁から覗く視線が、あちらの世界とこちらの世界を
つなぐかのように見える。
声が、平面の絵画からの声が、
地響きのように体に振動し、声色は柔らかで
深く、心をなでる。
グラナダ~戸嶋が長く生きた土地
風景は、近くて遠い。
遠くから見る景色と近くから見える景色が違う。
人間もそうかと思う。
どちらも真実であり、戸嶋と私の出会いの場。
筆の息遣いが、命を感じさせる。
平面の絵に身体の感触がある。
深い深い黒と暗さが、明るい白と光を
際立たせて、温度を感じさせるものがある。
湿度、空気の乾燥した感じ、風が頬を伝う感じ。
木々のざわめきや水のせせらぎといった音も耳に残る。
グラナダは行ったことがない。
というか、スペインに行ったことがない。
でも、なぜか懐かしく、穏やかな気持ちになる。
激しさの中の静寂。
近くて遠い。
明るい、暗い。
しっとりとして、乾いた。
ありとあらゆる逆の世界が、
融合、混在する世界。
激しく魂を揺さぶられ、
心の中に昨日から戸嶋が生きずづいてしまったようだ。
命の宿る作品は永遠に生き、
作家はその作品の中で生き続けるということ。
肉体がないのに、この存在感。
会ってもないのに、会ったよう。
スペイン大使館での展覧会は、11月28日まで。
それ以後、戸嶋に出会いたい方は、麹町の記念館へ。
2016年公演オーディション開催!~Ballet TRADITION「継承と育成」♬
日本バレエの未来を拓くプロジェクト発進!
来る12月10日新宿村スタジオにて、2016年9月9日予定の「第二回Ballet Traditon公演」のオーディションとワークショップが開催されます。締め切りが、11月30日と間近です。
オーディションの詳細はこちらへ↓
キエフ・バレエ団で現在ご活躍中の田北志のぶさんのレッスン付きのオーディションが受けられるという、このワークショップに参加するだけでも意義深いものだと思います。
私も実際に田北さんのレッスンとヴァリエーションクラスを受講したことがありますが、ボリショイ仕込のワガノワ・メソッドと田北さんのお人柄あふれるレッスンの流れは、シンプルで軽快。田北さんのバレエへの愛、母国への想いを感じることができる至福の時間となりました。
ぜひ、若いダンサーの皆さんには、本物の体験をしていただきたい。今の時代は、私がバレエを学び始めた40年以上も前に比べ、非常に恵まれていて、さまざまなワークショップも多く、世界のバレエのメソッドを学ぶチャンスがあります。
しかし、古典バレエの基礎となるものは、やはりロシアのワガノワ・メソッド(ソ連時代に確立されたものではありますが)と言っても良いと思います。
今見ることのできる『白鳥の湖』、『眠れる森の美女』、『くるみ割り人形』、『ライモンダ』、『バヤデール』などの古典バレエのほとんどの作品は、19世紀のロシアで誕生し、20世紀のソ連で完成度を高め、保存されてきたのです。
私の個人的な意見かもしれませんが、やはり、ロシアの古典作品を踊る上で、ワガノワ・メソッドを学ぶことは、特に多感な若い時期の身体と感性にとっては、貴重な経験となるでしょう。作品のスタイルを表現するための身体の使い方があるのです。
単なる「舞台経験」で終わることなく、その後の皆さんのバレエ人生につながる時間を過ごすことのできる機会になると思いますので、ぜひ参加してみてください!
田北さんの熱意、そして賛同したダンサーたちによる温かな第一回Ballet Tradition公演
「第一回Ballet Tradition公演」は、去る9月18日にすでに開催されました。バレエ史研究の大家でロシアバレエに造詣の深い薄井憲二氏を芸術監督に迎え、現在ウクライナ国立キエフ・バレエ団で第一舞踊手を務める田北志のぶさんが、ご自分も主演されながらプロデュ―サーを務められました。
演目は、20世紀のモダンバレエの幕開けを告げたミハイル・フォーキン振付の『ㇾ・シルフィード』、子どもから大人まで参加できる創作バレエ『マッチ売りの少女』、そして、ロシアバレエの古典の傑作の一つマリウス・プティパ振付の『ライモンダ』第三幕という充実したバランスの良い内容構成の公演でした。
とにかく、舞台上も客席も温かい空気に包まれた公演というのが、私の率直な感想です。田北さんの想い、コンセプトに賛同した第一線で活躍中のダンサーたちが、心を一つにして公演を盛り上げ、それを温かく支える観客たちが作り上げた公演だと感じました。
一緒に公演を見ていた方の「コールド・バレエって本当に大変なのね」という言葉が心に残っています。『ㇾ・シルフィード』のコールド・バレエ(群舞)の一人一人への指導が行き届いていることを象徴する言葉でしよう。
新規プロジェクト Spring of Arts
この公演は、田北さんとロシア・バレエ・インスティテュートで共にロシア・バレエを学んだ土井由希子さん(ウェルネス・アーツ・スタジオ)と冨永典子さん(TNBallet STUDIO)が、バレエ芸術の継承と育成をテーマに掲げ、Spring of Arts として設立したプロジェクトの一環で、薄井憲二先生も非常に期待を寄せてくださっているとのこと。
今後もさまざまな形で幅広い活動の展開が予定されるとのことで、日本バレエ界の未来への第一歩を感じさせます。
伝統を受け継ぎつつ、新しい表現を切り拓く。いつの時代の芸術家たちもチャレンジしていたこと。今の日本にその新しい動きを起こそうとしている田北さんたちの活動を心から応援したいと思います。
では、ロシアで最も歴史の古いバレエ団マリンスキーバレエ団によるバレエの詩
『ㇾ・シルフィード(原題ショピニアーナ)』をどうぞ♪
バレエ『エスメラルダ』あらすじ~【第二幕】、【第三幕】
お待たせしました。バレエ『エスメラルダ』のあらすじの続き、【第二幕】と【第三幕】です!【第二幕】には有名なパ・ド・ドゥ「ディアナとアクティオン」が踊られます☆彡
【第二幕】第三場 フルール・ド・リス(百合の花の意味~フェビュスの婚約者)
(注)フルール・ド・リスは、日本語では「百合の花」を意味しますが、実際はアヤメの花です。フランス王家を象徴する家紋で、この女性が王家と関係がある高貴な身分であることを示している。そして、それがエスメラルダにとって何を意味するか、ご想像ください。
【第二幕】壮大な邸宅、祝宴のためにまばゆく輝いている
フェビュスとフルード・ド・リスの婚約式の準備が着々と進んでいる。
素敵な懇親パーティーでバレエ史プチセミナー♪
YURI ecole de ballet contemporain主催 田中ゆり先生からのお誘いを受けて☆彡
少し時間が経ってしまったのですが、去る10月11日に国立のフェルミエールという
素敵なレストランで、YURI ecole de ballet contemporainというバレエスタジオ主催の
田中ゆり先生にお声をかけていただき、このスタジオの生徒さんと保護者の方たちの
懇親パーティでプチバレエ史セミナーをさせていただきました。
以前から、このパーティの雰囲気はフェイスブックのお写真などで拝見していて、
素敵な会をされているな~と思っていました。
ゆり先生とのつながりは、ツイッター時代に遡ります。ゆり先生は、私のバレエ史講座に長い間ご興味を持ってくださっていて、それに加えて、ピナ・バウシュが大好きで市田京美さんのWSにも「ぜひ、生徒を参加させたい」と意欲的な方で、生徒さんにさまざまな表現スタイルを学ぶ場を提供されています。
初対面が、実はこの10月11日の懇親会当日の朝。でも、FBでもいろいろと投稿をお互いに見ていたのと、メッセージのやり取りを通して共感することが多かったので、初めて会ったけど、会話はもうくるくる弾みましたw
先生の意外なバックグラウンドにも心惹かれ、バロック好きということもわかり、
これは話が早いと思いました。
案の定、バレエ史セミナーの方も、こんな感覚は初めてなくらいで、会場の空気が私を支えてくださって、最初の緊張はどこへ吹っ飛んだかというくらいに楽しくお話しできました。
小さな生徒さんは5歳から一番大きな生徒さんが中学三年生まで。保護者の方々もとても興味深く聞いてくださって、本当に温かな空気の流れる会でした。事前に、バレエ史に関するアンケートをお配りして、いろいろと質問をしました。
良くご存知の生徒さんや保護者の方も多く、私自身知らないこともあり、大変勉強になりました!
DVDのセッティングなどレストランのスタッフの方もお手伝いくださって、セミナーの流れも滞ることなく本当に助かりました。
こういう機会を与えていただくたびに思うのですが、舞台も同様ですが、お話の会も私一人ではできいないということです。
今回は、私が用意した資料の参加者分のコピーなどはすべて後援会の方が手伝ってくださいました。このようなサポート体制があるのも、ゆり先生のお人柄だな~と思います。
プロローグがかなり長くなりましたがw
セミナーの内容の流れは、やはりバレエの基礎を確立したルイ14世からお話ししました。私もまだまだ勉強中ではありますが、当時の人たちが踊った舞踏譜を見ながら、「アポロンのアントレ」(1680年の作品)を見てもらいました。
はっきり言ってしまいますと、1680年にどのように踊ったか?なんて確実なことはだれも知らないのですwヴィデオがない時代ですから、資料として残されている舞踏譜と音楽と版画などをもとに踊りを再構成しているのです。上体の使い方などはピエール・ラモーの『舞踊教師』を研究しているとのことです。
最初のプレパレーションのポーズだけ、一番年長の生徒さんに代表して実演してもらいました。左足前のクロワゼ・デリエールから始まります。
今回、皆さんにお見せした1680年の『愛の勝利』という作品の中の舞踊シーン「アポロンのアントレ」は、ルイ14世が実際には踊ってないと考えられます。というのは、ルイ14世は1670年には、自らが舞台に立って踊ることを辞めたと言われているのです。でも、このアントレを王として絶頂期にあったルイ14世が玉座に座り、自分が踊っているような気分で見ていたのではないか、と想像することができます。
今回、この映像をお見せした理由の一つは、「バレエ」と言っても時代によって、その様式や踊り方、音楽が違うということを知ってもらいたいと思ったからです。
この踊りを見て、「何を感じたか」ということの方が大事なのです。今のバレエと違うなら、「何が違うのか?」、「どうしてこういう踊りなのか?」、「衣装が違う」などに気づいてもらえればと思いました。
そして、バレエにとって音楽が非常に重要で、特にこのルイ14世時代に踊られたバロックダンスというものは、「動きは音楽そのもの」なので、ある意味舞踏譜に囚われず、まず「音楽が求める動き」がどのようなものか、という地点に立ってみるというのも良い経験かと思います。
そして、今でも楽しめる「ロマンティック・バレエ」のスタイルを紹介するために『パ・ド・カトル』(1845年ロンドン初演)をお見せして、当時のトーシューズが今のように固くなかったことなどをお話ししました。この記事の最初の絵をご覧ください。
まるで、この絵が動き出すように始まりますよ!
ガス灯などの照明の技術も進み、衣装も軽くなり、さまざまな科学技術と芸術のコラボレーションによって、バレエ芸術が発展していった時代のお話しです。
中心地はパリ、ロンドンなどの大都市で、ヨーロッパ各地、ロシアのサンクト・ペテルブルクや北米まで公演が行われました。
そして、バレエは1870年以降、ヨーロッパでは「芸術的な価値」が低くなってゆく傾向が強くなってゆきます。その環境の中でも、もちろん良い作品を作り続けた人たちもいました。
しかし、ロマンティック・バレエの時代をけん引した才能豊かな振付家や舞踊教師たちが、ロシアに向かい、ロシアでのバレエ文化の繁栄の下準備をしたことは間違いありません。
その中で最もロシア・バレエの発展に貢献したのがマリウス・プティパというフランス人舞踊家兼振付家でした。
皆さん良くご存知のチャイコフスキーと一緒にバレエを作った人です。『白鳥の湖』、『眠れる森の美女』、『くるみ割り人形』とチャイコフスキーの三大バレエと言われていますが、中でも一番プティパとチャイコフスキーが綿密に計画を立てて、一緒に作品を作り上げたのは、1890年初演の『眠れる森の美女』です。
台本をプティパが書き、作曲もチャイコフスキーに注文を出して、二人は話し合いをしながら作ったようです。
その1890年の初演時のものを復元した演出の第三幕の結婚式のパ・ド・ドゥをお見せしました。衣装も当時のデッサンを元に作っているので、見慣れたものとは少し違います。
これは、セミナーでお見せした配役とは違いますが、オブラスツォーワのオーロラです。
そして、最後に、このセミナーにお声をかけてくださったゆり先生へのプレゼントの映像を見ていただきました。プティパの後にロシア・バレエに新しい風を起こしたフォーキンとアンナ・パヴロワに登場してもらい、定番の『瀕死の白鳥』で幕引きとさせていただきました。
この映像をはじめてご覧になる方は、本当に感動してくださいます。「こんな時代の映像が残ってるんですね~!」と。そういう新鮮な感動が何よりも嬉しいですし、私自身が忘れないようにしたい感覚です☆彡
お話しが終わっても、生徒さん、保護者の皆さんが、私が持参した18世紀の舞踊の教科書『舞踊教師』や1700年に出版された舞踏譜の本、それから、17世紀の童話の絵本などを興味深く読んだり、見たりしてくださってました。
このような活動を少しずつでも継続できると、嬉しいなと思いました。別に、無理にお勉強しなくていいんです。覚えなくていいんです。ちょっとだけ興味を持ってもらえれば。そして、小さな心に小さな「学びの種」が植えられること。育てるのは子どもたち自身。それが私の願いです☆彡
17歳を迎えた娘のために~思い出の詰まったベイクドチーズケーキ♪
母との思い出の詰まったベイクドチーズケーキ
ここのところ心が痛むことがいろいろ重なって、私でも凹むことがありますw
こんな時はケーキを焼くのに限ります。ちょうど娘の誕生日がハローウィーンだったこともあり、彼女の希望を聞いたら、「ベイクドチーズケーキ!」と言うので、一日遅れで焼いています。
このチーズケーキは、母と一緒に作った思い出が詰まったケーキ。だから、娘にも「いつか教えるね。」と言うと、「うん!!」と嬉しそうに答えてくれました。
作りながら、なんとなくあの世の母に愚痴ってみたりして。
「こんなことがあってさ~、ママだったらどうする?」みたいな感じw
母のこだわりが詰まったこのチーズケーキ。
まず、一番下になる生地に使うビスケットを砕く時には、必ずすり鉢を使います。
なんかすり鉢が切れてるw
母は、グラハムビスケットを使っていたけれど、なかなか手に入らないので、
私はスパイスのたっぷり入ったスペキュロスのビスケットを使います。後からシナモンを入れなくても良いので便利(*^^)v
ビスケットを砕くと、母の声が聞こえます。
「もっと粉状になるまですらないと。雑ね~」と(;'∀')仕事がとても丁寧な人だったので、良く注意されました。スポンジの生地の時もかなり泡立てをきちんとさせられました。そんなプロセスを丁寧にすれば、ケーキは美味しく仕上がるんですよね。
習っているときは、「細かいな~」と思っていましたけど、今となってはありがたいです。私も娘に言うのかな、「もっと細かくすらないと」ってね(*^▽^*)
そろそろオーブンから良い香りが漂ってきました。
焼き上がりはこんな感じ。本当はちゃんと盛り付けて写真を撮って、投稿した方がよいのかもしれないけど、私はこの型に入った姿が好き。舞台だとゲネプロみたいな感じでww
焼きたてはふわふわのスフレのようです(*^▽^*)
美味しそうに焼けて、心もスッキリw
本番は、明日のお楽しみ♪冷蔵庫でしっかり冷やして、いただきましょう☆彡
<歴史も生もの>~19世紀のバレエ技術の発達についての思索♪
バーレッスンが日常のレッスンの中で定着したのはいつ頃からでしょう。
バーレッスンを描いた絵と言うと思い浮かぶのは、やはりドガの絵でしょうか。ドガが描いたオペラ座の踊り子たちの絵は、バレエ文化の中心地がフランスからロシアに移ったころのフランス。
時代の雰囲気としては、ダンサーの質、バレエ作品の質が低下しつつある時代と言われた19世紀後半です。あくまでも、「雰囲気」ですから、本当は頑張ってた振付家、ダンサーもいたはずです!
近々に、またバレエ史のお話しをする機会を頂き、日々頭の中がいろんな時代を駆け巡っています(#^.^#)
ちょっと、ボリュームのある前菜になりますが(笑)
「バレエの発祥」とか「バレエの起源」は?
さまざまなバレエ史、舞踊史の本を紐解いてみると、一般論としては「イタリアのルネサンス」というのが定説です。
でも、細かく史料、資料を見てゆくと、そう単純でもないような感じがします。私は大学で教鞭と取るとか研究機関で働くとかいうレヴェルでの研究者ではないので、いろんな古の文献に触れている立場で、「そう単純じゃないな~」と思うだけなのですけどね(#^^#)
そして、またまた偉そうですが(;'∀')バレエ史に関して申し上げるなら、ネット情報でも書物の文献でも、一つのデータ、考え方に囚われないことが大事です。
例えば、ルイ14世の時代のバレエのことを学ぶなら、その当時の人が書いたものに触れ、その時代に生きた人の感覚、考え方、社会的な常識などを知ることが大事かと思います。
歴史は単に過去の書かれたものではなく、生ものだと考えているのです。
17世紀のルイ14世時代の時代に生きたイエズス会士メネストリエが記した本がありますが、こちらのタイトルが興味深いです。1682年にパリで出された本です。
本の題名が
Des Ballets Anciens et Modernes selon les regles du theatre
日本語に訳してみると、
「演劇制作のさまざまな規則に基づく、古くからのバレエと新しいバレエについて」
このタイトルを見ただけで、「ん?」と気になるのが、Modernes と言う言葉。
17世紀の人から見た<Moderne モダンな、新しい>ってどんな感覚だろう?と言ったことから私の思索は始まるのです。
さてさて、お話はメインディッシュ!
19世紀のイタリア、フランスのでバレエ技術の進歩というと、バーレッスンの普及とトーシューズの発明があげられると考えられます。
その背景には、国立、王立のバレエ学校が18世紀半ばくらいからヨーロッパ、ロシアなどでつぎつぎと設立され、言い方が少し悪いけれども、バレエダンサーの大量生産の必要性が高まった時代とも言えるでしょう。
これからご紹介する映像は、19世紀のロマンティック・バレエ時代を代表する振付家の一人、デンマークのオーギュスト・ブルノンヴィルの『コンセルヴァトワール』という作品です。
この作品は1849年にブルノンヴィルが故国のデンマークで創作したものです。テーマは、ご覧のとおり、タイトル通り「コンセルヴァトワール」(注:コンセルヴァトワールは国立の芸術専門学校のことですが、この場合は、バレエ学校の意味)です。ブルノンヴィルは、踊りの修業のため1820年頃にパリで勉強をします。その時の先生が、オーギュスト・ヴェストリスという人でした。その先生の教室の思い出をもとにして作った作品と伝えられています。
ここで申し上げておきますが、バーレッスンはルイ14世の頃の宮廷バレエの稽古にはありませんでした。
私が知っているバーの絵で一番古いものはこれです↓
1820年にミラノで出版されたイタリア人舞踊教師カルロ・ブラジスの書いたバレエの教本の挿絵です。
お気づきの方もいらっしゃるかと思いますが、1820年頃というのがどうもバーレッスンのことを考える上でポイントとなるかな?と私は考えています。
一方で、トーシューズも一番この道具を有名にしたのは、1832年に『ラ・シルフィード』を踊ったマリー・タリオーニというバレリーナでした。でも、「つま先で立つ」という技術は、19世紀に入る頃にはいろんな踊り手が試していたようです。
次の二つのシューズの写真を見てください。
左は、マリー・タリオーニがとても大切に育てたというエンマ・リヴリーというバレリーナが履いていたトーシューズで、右側がアンナ・パヴロワのトーシューズです。
リヴリーのものは、1860年頃のもので、パヴロワのは1914年ころのもの。50年くらいの間に、トーシューズもかなり変化しているのがわかると思います。トーシューズの変化は、つま先で踊る技術の進歩につながります。
リヴリーが履いていたものは、靴と言うよりスリッパのような形で、今のバレエシューズの方に近いですね。このシューズの場合は、つま先に厚紙や綿などを詰めて、立ちやすいようにしていたようです。
パヴロワのものは、イタリアの靴職人ニコリーニ製で、今のトーシューズとほとんど変わらないものです。
もっと大きくするとこんな感じ。
これを履いて『瀕死の白鳥』とか踊ってたんですね~♪
デザート的に☆彡
トーシューズとバーレッスンには直接関係あるようなないようなものですが、ちょっと面白いものを発見したのでご紹介します。
これは1800年頃の器具みたいなのですが、なんでしょう?人間ていろんなもの考えますね(笑)
これは、ロンドンのヴィクトリア&アルバート博物館所蔵の木製のTourne Hanche
文字的には、股関節回旋器という意味で、ターン・アウト促進器具のようです。
使い方は、上部の板に踵を固定して、動く方の板で足を外旋させるというものらしい。器具の名前の通りターン・アウトは、バレエをされている方ならご存知のはずですが、この器具で実際ターン・アウトをしようとすると、足首からひざ下だけで180度開くことになりますね。当然この器具によって関節の故障が問題となったようです。「股関節回旋器」という名前通りに使えば問題ないはずなのですが(;'∀')
でも、1845年頃の風刺画(下を見てください)のようなものがありますが、そのキャプションに「ダンサーが成功するためには、足を壊さないといけない」などと書いてあるのです。
今では、解剖学的にターン・アウトの指導が世界的にも定着していますが、こんな時代、もしかしたら、日本だって見様見真似のころはこんなものだったかもしれません。
人間て、いろんな失敗を繰り返しながら進歩、進化しているのでしょう。
食後のお飲み物として~今回のまとめ♪
今の段階で、バーレッスンの定着とトーシューズを履いて踊る技術の進歩との関係性について、私自身確固たる資料を見つけていません。
ですので、あくまでも仮説ですが、1820年頃にはバーレッスンがヨーロッパで日常のクラスの中で定着していたということと、20年以降長くバランスを保つ」とか「回転する」といったつま先で踊る技術が進歩する中で、トーシューズのつま先も硬いものが開発されていったという事実は認められます。
身体的な技術の進歩と装身具の面で身体を支える技術が相まって、素晴らしい結果としてロシアでの華々しいバレエ文化の開花、プティパ作品の誕生と言えるかもしれません。
そして、「歴史は生もの」と言いましたが、今日このブログを書いた後で、突然先ほどお話しした「股関節回旋器」が、実は別の用途に使われていたという新事実を発見された方は、ヴィクトリア&アルバート博物館までお知らせしたくださいね(笑)
こちらです↓
ヴィクトリア&アルバート博物館のHP
ちなみに、一応私は嘘つかないようにしています。ついたと気づいたらすぐに文章とかは直します。
でも、情報がたくさん溢れますので、なかなか追いつかないところもあります。ですので、一度読んだブログも時々更新したりしますので、たま~に確認してくださいね☆彡
そして、「この人、間違ってる!」と思ったら、ご遠慮なくコメントしてください!